料理家 今井真実の「食べたいエンタメ」(ミニレシピ付き)第7回
敬愛する山田詠美さんの最新刊『肌馬の系譜』を読み、今井真実さんが感じたこと。作品に描かれた料理も再現!
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今井 真実
2024.08.23
Yummy!
今月のミニレシピ
仏教徒の楽しみ「ブッディスト・ディライト」


鍋に水を張り、強火で沸騰させます。好きな野菜を一口大に切り、全体に塩をふり、蒸籠の上に並べます。鍋の上に乗せて、湯気が立ち上ったら6分強火で蒸します。タレは、生姜スライス3枚、砂糖小さじ2、醤油大さじ1と1/2、サラダ油大さじ1を耐熱ボウルに入れて、ラップをして電子レンジで600w50秒加熱します。たしかに、仏教徒のとっておきの楽しみになるほど、おいしいですよ!
山田詠美さんの小説に登場する食べものは、魅力的なものばかり!
生きてて良かった、と思う瞬間って、ありませんか?
私にとって、それは山田詠美さんの新作小説を読む時です。本屋さんで手に取り、その表紙の紙を撫で、耐えきれずにページを開き、ダメよ、我慢しなきゃあとレジに向かう瞬間。思わずため息をつき、ああ生きてて良かった、と思うのです。
少女時代から愛してやまない山田詠美さんの新作は、いつも思いがけないご褒美のようなのです。昨年の10月に発売された『肌馬の系譜』(幻冬舎)を読み始めたときも、山田さんの紡ぐ物語に浸り、美しい言葉を目にするだけで、なんと幸せなことだろうと思いました。

みなさん、小さな頃にぐりとぐらのホットケーキに憧れたことはありませんか? 私もその一人。そして思春期以降は映画や小説の中の食事のシーンに強く惹かれるようになりました。
山田さんの小説に登場する食べものは、魅力的なものばかり。豚の臓物を煮込んだチットリンズに、シャンペンとエスカルゴ、ベイクドポテトにサワークリーム、ジントニックにラムコーク。10代の私にとって、それは魔法の言葉であり、想像もつかない夢の食べものでした。
恋の間には、美味しい食べ物や飲み物が存在して、ふたりの関係を深める小道具にもなる。読んでいるとドキドキして、それを知ってしまった自分が特別のような気がしたものです。
今回皆さんに紹介するレシピは、『肌馬の系譜』に収録されている短編、「ブッディスト・ディライト」に登場する野菜料理です。
「小説を書かない小説家」の心を解きほぐした、”仏教徒の楽しみ”と名付けられた料理
舞台は30年前のニューヨーク。チャイニーズレストラン、ヤムヤム・キッチンへひとりで訪れた主人公の「私」は、「ブッディスト・ディライト」を注文します。仏教徒の楽しみ、と名付けられたその料理は、食べやすい大きさに切った野菜を蒸籠でスチームして、醤油ベースのたれに浸して食べるシンプルなメニュー。それ以降も「私」はヤムヤム・キッチンに来るたびに、「ブッディスト・ディライト」を注文します。
ある日、店の後継ぎでもあり店員のブライアンから、「菜食主義か?」と聞かれます。「私」は自分たちの仲間の中でも菜食が流行りだったから、その風潮に合わせてブッディスト・ディライトを頼んでいたのでした。返答に口ごもっていると、ブライアンは「仏教徒なんだよね?」とたたみ掛けるように聞いてきます。その質問に対してもあやふやな物言いをしていると。彼は私に顔を近づけて囁きました。
「ねえ、それじゃあ、きみは、何?」

「私」は、小説を書かない小説家で東京からの長期旅行者でした。ニューヨークに来たら、大きな幸運にぶち当たるかもしれない。しかし、そんなことなど望むべくないこともうすうす感じています。どこにいたとしてもどうにもならないに決まっているという気持ちをこらえて、希望の火を絶やさずにいました。
私の内側には、数多くの心象風景が丁寧にファイルされているというのに、まだそこに確固たる言葉というものが与えられずにいるのだった
「私」は思います。「小説を書かない小説家でなんかいたくなかった」。
そんな日々の中で、「私」はヤムヤム・キッチンに通うようになります。そしてブライアンに「ねえ、それじゃあ、きみは、何?」と尋ねられて、馬鹿にされたと思い、怒りを抱きます。もうこんな店には来ない。「私」は、そう決めたはずでしたが、数日後には再びヤムヤム・キッチンを訪れブッディスト・ディライトを食べるのです。そして、その湯気の向こうにブライアンの顔があり、彼は「私」を春節の祭りに誘ったのでした。
冬の冷たい空気や心まであたたかく湿らせてくれる「蒸し料理」の不思議な効能
蒸し料理を作ったことのある人ならふわふわと立ち上る湯気が、冬の冷たい空気や心まであたたかく湿らせていく様子が目に浮かぶでしょう。蒸し料理にはそんな不思議な効能があるものです。
不安と希望とない混ぜになった感情を持ちながら異国の地で過ごす「私」にとってこの湯気の作用はきっとあったのではないかと思うのです。そしてブロッコリー、人参、パプリカなどの明るい野菜の色合いも、「私」の気分を少しだけ前向きにしたのです。






私はニューヨークにも行ったことはありませんが、彼女のよるべない気持ちと、このブッディスト・ディライトのあたたかさを感じることが出来ます。蒸した野菜の甘みや柔らかな食感。懐かしい醤油の味。胃の中を刺激せず満たしてくれる食べもの。
「私」とブライアンは中国式に新しい年を一緒に迎えます。自分の心の中の景色にふさわしい言葉を見つけられていなかった「私」。しかし、ブライアンと出会って、話は尽きません。お互いいくらでも話すことがあり、二人とも呆れるほどに語り合うのです。
話し相手を変えれば、自分のつたない半生からも、こんなにも言葉を紡ぎだせるのだと発見して、喜びのあまり叫び出しそうになった
ストーリーの中に登場する「食」が、登場人物への真実味や説得力を持たせる
「ポリティカリー・コレクト(以下PC)」とは、あらゆる差別を無くし、全ての人が不快感を持たないような用語を使うという考え方です。『肌馬の系譜』は短編集であり、PCを題材にした物語が中心になった構成です。
時折、意識もなく、差別的なことを口にする人がいます。まるで当たり前のように、息を吐くように。その言葉が中傷に当たるともわかっておらず、善人の顔をして主観やただの印象で物事を判断するのです。そして、相容れないものを簡単に叩き、裁こうとします。
「正しさ」とはいったいなんでしょうか? これだけ配慮や、PCが謳われているこの時代に、なぜでしょうか?
そもそも無自覚な差別主義者は、PCに対して当事者意識がないと思えます。むしろ頭を抱えているのは、言葉の力や恐ろしさを十分に理解している人たち。

あとがきに、山田さんはこう書かれています。
「差別を描くことと、差別主義者であることは、全然違う」
「個人のあまりにもひそやかな領域では、PC違反は極私的快楽になりえる」
この社会では許されざる者たち。
山田さんは、彼らを創造し、その心のひだを、体温を、生き様を描きます。彼らの間に生まれる事情や関係性に対して読み手は何を思うでしょうか? 確固たる「言葉」を紡ぐ山田さんだからこそ、道徳を超える物語を描けるのです。
山田さんのストーリーの中に登場する「食」は、人物への真実味や説得力を持たせます。文章からの、情報だけではなく、香り、舌、ただ一つの料理の選び方でさえ、その人の生活や、価値観を感じさせるのです。
(『料理家 今井真実の「食べたいエンタメ」(ミニレシピ付き)』は毎月第4金曜日朝8時更新です。次回をお楽しみに!)
Staff Credit
撮影/今井裕治
Check!
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