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金原由佳 Yuka Kimbara
映画ジャーナリスト
兵庫県神戸市出身。関西学院大学卒業後、一般企業を経て映画業界に。約30年で1000人以上の映画監督や映画俳優のインタビューを実施。映画誌、劇場パンフレット、新聞などで映画評を執筆。著書に『ブロークン・ガール 美しくこわすガールたち』、共著に『伝説の映画美術監督たち×種田陽平』。映画祭の審査員、トークイベントなど講演・司会も多数。
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9月1日は「防災の日」。地震、津波、高潮、台風、豪雨、洪水など、自然災害が少なくない日本において、災害に対する認識を深めることを目的に、1960年、関東大震災が起きた日を選び、防災の日が制定されました。そして今年は関東大震災から100年の節目の年となります。
大正12(1923)年9月1日午前11時58分、関東を襲った未曾有の災害、関東大震災。発生が昼食の時間と重なった事が災いし、神奈川県、東京都など多くの火災が起きて被害が拡大。津波、土砂災害なども発生し、死者・行方不明者10万5千人余に及びました(理科年表より)。被害者の9割は火災に巻き込まれたとの記録が残っています。
この混乱の中で、「朝鮮人や共産主義者が井戸に毒を入れた」「暴徒化した」というデマが流れていき、噂を信じた官憲や自警団、民衆によって多くの朝鮮人が殺されるという悲劇が置きました。同時に、吉田喜重監督の『エロス+虐殺』が描くように、アナキスト(無政府主義思想家)の大杉栄と、作家で内縁の妻、伊藤野枝、大杉の6歳の甥が憲兵隊特高課に連行され、憲兵大尉(分隊長)の甘粕正彦らによって扼殺されたという事件も起きています。これらの事件の検証は、その後、研究者や報道機関によって、何度もなされていますが、不運にも歴史に埋もれてしまった出来事もあります。
ドキュメンタリー作家として著名な森達也監督が挑戦した初の劇映画『福田村事件』は、これまでほとんど語られてなかった事件を題材にしています。震災から5日後の9月6日、香川県から薬の行商に来ていた一行15人が神社の境内で休憩中、千葉県の福田村(現・野田市)、田中村(現・柏市)の自警団に襲撃され、子どもや妊婦を含め、9人が命を落とした虐殺事件。事件はその後、公に語られることがありませんでしたが、野田市の市民団体の長年の活動や、今回の映画化が経緯となって、100年目を迎える今年、犠牲者側の香川県三豊市の教育長らが野田市の追悼イベントに参加するなど、ようやく行政間で事件を語り継ぐ動きが出てきました。
井浦新さん、田中麗奈さん、永山瑛太さん、東出昌大さんなど人気俳優が積極的に参加した背景や、森監督の映画化までの取り組みについて伺いました。
──森監督は2002年に野田市で福田村事件の慰霊碑が建てられるという小さな新聞記事を目にされて以来、映像化を探り、複数のテレビ局に企画を持っていったそうですが、何がタブーと、されたのですか?
「タブーとは言われなかったです。ただ、なぜ、扱わないのかという理由ははっきりと言わないんです。『他の企画、なんかないの?』って話をそらす感じ。まあ、こっちもテレビでの企画は無理かなと思いながら持っていっているから案の定だなと思うんだけど。なので、ここからは僕の想像ですけど、関東大震災の朝鮮人虐殺というテーマだけでもテレビではハードルが高い。今がまさにそうですけど、過去の日本人が起こした残虐事件をテーマにしようとすると、『その歴史は捏造だ』とか『自虐史観だ』との声が上がって炎上する。スポンサーを気にするテレビは炎上をとにかく嫌います。それは、僕が動き出した20年前でも同じでした。
福田村事件の場合は、被害者たちが被差別部落出身だったという背景も重なり、より一層ハードルが上がったのかもしれない。ただし、関東大震災での朝鮮人虐殺に関しては、各地での聞き取り調査や記録など、エビデンスがいっぱい残っているんです。これ以上、何を証明すればいいんだっていうほど。
なので、最終的には視聴者からの反応を気にしているんでしょうね。僕個人は、視聴者からの意見に対して、テレビ局は過剰に防衛し過ぎているんじゃないかと思いますけど」
──私が『福田村事件』を見て、肌身感覚としてシンパシーを感じたのは、村の女性たちの感情が細やかに演出されていたことでした。
震災後、朝鮮人が襲ってくるんじゃないかと疑心暗鬼になっている中、内務省から各地の警察署に下達した文章の中に、「混乱に乗じた朝鮮人が凶悪犯罪、暴動などを画策しているので注意すること」という内容があったことで、あいつらがきたら俺たちがやっつけてやるというような、勇ましい村の空気に乗りたくてしょうがない夫や息子たちに対して、彼らのはやる気持ちをどう抑え、そらすのか、村の女性たちの感情が描かれていました。
これは、今の時勢でも、なにか政府のお墨付きを得たら、マジョリティ側の強者の論理に乗っかっていこうとする身近な人をどう諫めるのか、とても繋がっていることだなと感じたんです。
「福田村事件が起きてしまった背景には、内務省からの通達でお墨付きを得たと受け取った人が出たということもあったでしょうけど、やっぱり、大きな要因は、不安と恐怖でしょう。実は、震災直後の虐殺について詳しく調べると、結構ね、女性も参加しているんです」
──え! そうなんですか。
「女性に竹槍を突かれて亡くなった朝鮮人の最期を見ていたという証言もある。推測だけど、子供や家族を守らなければいけないとの意識が前景化したのかなと思っています。
第2次世界大戦に兵士として従軍した二人の女性の共闘を描いた映画『戦争と女の顔』という映画があります。原案は従軍女性兵士たちの証言をベースにした「戦争は女の顔をしていない」。読みながら、20年前のチェチェン紛争の折、ロシアとチェチェンの母親たちが連帯して「戦争をやめろ」「夫や息子を戦地に送るな」などとシュプレヒコールをあげたことを思い出しました。だから、『福田村事件』でも女性をどう描くのかは、かなり大事なことだと思っていました」
──日本人の心の底流には村意識があると言いますか、共同体における同調意識からどう距離を置くのかは、今も大きな問題です。ただ、日本映画においては度々、村の同調圧力から逃れる、孤高のヒロインが存在していて、それは私の希望でもあり、大好物なんです。
例えば増村保造監督の『清作の妻』の若尾文子とか、『エロス+虐殺』で伊藤野枝を演じた岡田茉莉子とか。大概、ひとりで共同体に立ち向かうんですけど、この『福田村事件』では田中麗奈さん演じる朝鮮半島で育ち、日本に戻ってきたモダンな女性静子や、コムアイさん演じる、夫の従軍中、船頭と情を通じ合う咲江や、木竜麻生さん演じる目撃したことを正確に記録に残そうと奮闘する新聞記者の恩田など、何人も存在しているところが励みになりました。
「それは、佐伯俊道さん、井上淳一さん、荒井晴彦さんという3人の脚本家の功績です。人物の多様性が大事だと僕は思っていたし、もうひとつ、加害者側の背景をしっかり描きたかった。
ドラマの場合、被害者側にウェイトを置くことが多い。理由は観客が感情移入しやすいから。その結果として加害側は悪の権化のように描かれる。それは絶対に事実ではないし、僕の本意でもない。
『A』というドキュメンタリー映画で、オウム真理教の信者の日常に密着したけれど、彼らがとても善良で穏やかであることに驚きました。要するに普通なんです。でも同時に彼らもまた、指示されればサリンを撒いていたはずです。その時以来、普通の人たちがなぜあれほど凶暴な振る舞いをできるのか、その理由とメカニズムをずっと考え続けています。
その後にポーランドのアウシュビッツ収容所に行ったり、ポル・ポト政権下で大量虐殺が行われたカンボジアのキリング・フィールドの刑場跡に行ったり、島民が兵士たちに虐殺された韓国の済州島に行ったりしながら、普通の人が大量に人を殺すことについて考えてきました。
中国で民間人を殺戮した皇軍兵士たちやウクライナのブチャで市民を虐殺したロシアの兵士たちも、国に戻れば良き夫であり、良き息子かもしれない。言葉にすればハンナ・アレントが唱えた凡庸な悪。そのあたりの視点を描きたいと考えました」
──映画を見ていてなるほどと思ったのは、福田村事件は唐突に起きたのではなくて、それ以前に、事件の発火となる出来事について言及されていることでした。
田中麗奈さん、井浦新さん演じる澤田夫妻は日本統治時代の朝鮮で暮らしていたという設定なので、1919年3月1日、ソウルでのデモから朝鮮半島全体に広がった日本からの独立を求める三・一運動や、その最中に起きた提岩里教会事件などについて話をする場面があり、色々、前哨戦があったんだなと。
政府からの「何かが起きるんじゃないか」という情報が潜在的に国民の心の中に忍び込んでいるというのは、今、北朝鮮からのミサイル発射におけるJアラートに接している私達と重なり合う状況ですね。
「外敵の恐怖を誇張して訴えるのは、支持率を上げたい独裁的な為政者がよく使う手法です。北朝鮮の実験ミサイルが日本列島の上を飛ぶ高度は、宇宙ステーションより遥かに高い。少なくとも飛行中に破片が落ちてくるはずはない。でも、誰もそういうことを指摘しない。それが気持ち悪い。為政者だけじゃなく、メディアも不安や恐怖を訴えれば、視聴率や部数が上がります。こうして政治権力とメディアの利害が一致して、国民の不安や恐怖が増大する。どの国でも起こりうることだし、日本もかつて体験したはずです」
──映画の中に内務省の役人の直接の顔は映りませんが、内務省からの通達を福田村の村長を始め、村人みな、ずっと待ち望んで、内容を気にしている。姿は見えないけどその影響力の強さを感じさせられる構成となっています。
「……姿は見えないけれど影響力は強い。ジョージ・オーウェルの「1984」に登場するビッグブラザーみたいですね(笑)。最初の段階の脚本では、実は内務省のシーンはあったんです。僕が出そうと考えていたのは、この時代の内務大臣の水野錬太郎と警視総監を務めていた赤池濃を登場させるつもりでした。水野はそれ以前の大正8年に齋藤朝鮮総督のもとで政務総監を務めていて、赤池は水野の部下。ふたりは朝鮮総督府在勤中、朝鮮独立派によるテロに遭遇しています。だから、二人はよく知っているわけですよ。朝鮮人が暴動を起こしたら怖いということを。それで、日本に戻って、過剰に怯えていた。
1909年(明治42年)には伊藤博文暗殺事件が起きていて、米騒動もあって、政府中枢にいる人達からすると、何か事が起きればまた暴動が起きるなどと恐れていたはずです。もちろん一般の日本人も、蔑視していた朝鮮人に対しての恐怖があった。
だから未曽有の災害が起きた時、報復されるかもしれないとの恐れが一気に先鋭化した。しかもこの時、水野と赤池はともに東京の治安警備にあたっていました。彼らが抱えていた不安が内務省の通達する文章として反映され、それが朝鮮人虐殺を起こした、大きな要因の1つだったと思います」
──この場面をカットしたのはなぜですか?
「まず尺の問題。当初の脚本をそのまま映画化すると3時間近くなると予想できたから。さらに、内務省の場面を入れることで、あちこちに人間模様が散ってしまうことと、まあ、説明する場面をいれなくても観客に伝わるだろうと。
ただし、メディアの要素はどうしても入れたかった。多くの人が、朝鮮人が暴動を起こしているという流言やデマを信じてしまった背景には、関東近郊の地方の新聞社の動きが関係しています。東京、横浜の都市部は地震で輪転機が壊れて、東京日日新聞など例外はあったけれど、基本的には新聞が発行できなかった。でも震災翌々日あたりから、無傷だった地方紙や東京日日などは、朝鮮人が放火とか暴動、略奪をしているなどと書いている。それが中央にフィードバックしてしまった可能性もありますね」
──メディアが書くと、それがフェイクニュースだと一市民が見抜くのはなかなか難しいですね。SNSにおけるファクトチェックなど、まさに今と同じメディアと大衆の関係性と重なります。
「メディア・リテラシーの観念などまったくないあの時代に、嘘と見抜くのは難しかったでしょうね」
──加害側になってしまう福田村、田中村の村人の抱える不安感を描くにあたって、森監督が演出で最も留意された点は?
「一色にしたくなかった。村の中にもいろんな人がいる。水道橋博士が演じた自警団の長谷川も、虐殺の場面で最初は消極的でした。人を殺して喜ぶような人は一人もいない。でも結果としては殺戮に加担している。そういう要素は大事にしたいなと。
水道橋博士はご自身とは真逆のキャラクター設定で演じてもらったから、相当、悩まれて、ちょっと追い込みすぎちゃった。でもあの役を、いかにも凶暴そうな大きな人にはやってほしくなかったんです」
──加害者側を演じるにしても、被害者側を演じるにしても、きちんと背景を理解しないと演じきれない複雑な構造となっていますが、井浦新さん、田中麗奈さんをはじめ、東出昌大さん、永山瑛太さんなど、かなりリサーチして出演されたと聞いています。
「僕が監督をするという情報を聞いて、真っ先にプロデューサーに連絡をくれたのが東出昌大さんでした。全く面識はなかったんですけど、『森さんの監督作、本を全部見て、読んでいるので、どんな役でもいいから出ます』と言ってくれたらしい。彼と井浦さんは早くから決まっていたけれど、他のキャストまだ全く白紙の時期、ミーティングでプロデューサーが、『この作品、いったい誰が出てくれるんだ』って言ったことを覚えています。
つまり、下手したら反日映画って言われるかもしれないし、炎上案件だし、場合によっては上映中止になるかもしれないし、そうなると出てくれた俳優にとっては決してメリットにならないし、本人たちが出たいと言っても事務所が嫌がるだろうし、じゃあ、誰が出てくるんだろうと頭を抱えたんです。でも、いざ、蓋を開けてみたら、スケジュール的にNGで出られないというケースはありましたけど、ほぼお願いしたみなさんが出てくれた。
メインの登場人物が決まったあとに、サブの登場人物のオーディションを開催したんですけど、1000人以上の人たちが応募してくれた。オーディションの応募用紙に、こういう題材に日本映画は取り組まなきゃダメですみたいなことを書いた人が多くて、俳優さんたちもみな問題意識を持って応募してきてくれているんだなと感じました。ただ、オーディションは縁なんです。素晴らしい俳優なのだけど、登場人物の年齢と雰囲気、ポジションが合致しなくてはいけないので、今回はご一緒できない人がたくさんいて、申し訳ない思いをしています」
──香川県から関東まで薬を売りに来ている行商団のリーダー、沼部新介を演じているのは永山瑛太さんですが、この人がまた、差別に関する繊細なセンサーを持っていて、村の自警団からの物言いに本質的な問いかけをする。
村人の言う“守る”とはまた別の種類の、人間の尊厳を守る言動をするのですが、それが自警団の暴力性のスイッチを刺激してしまう一面が描かれます。
「多分ですけど、沼部は当時の差別部落に生まれ育って、学校にも満足に行けていないだろうし、当然、歴史教育も受けてないし、朝鮮人差別についても深く考えていなかったと思います。
でも、直感的に彼は、眼の前で起きていることは何か、おかしいと感じる。そして感じる自分をごまかさない。朝鮮人の飴売りの女の子に対しても、会話したら俺たち何もと変わらない、とどこかで思っている。彼が最後に頼っていたのは知識や規範じゃなく、感覚だと思います。だから、強いんじゃないかな。」
──これは史実から離れたこの映画独自の描写だと思うのですが、薬売りの行商団の人たちは、一年前の大正22年3月に京都で結成された全国水平社の、水平社宣言を心の支えにしていて、全文を諳んじて言えるようになっています。
あの設定は、彼らが希望を抱えて生きていたということを示したかったからですか?
「僕、大好きなんですよ、水平社宣言が。特に後半の部分が好きで、映画の中で絶対に使いたいと思っていたんです。
行商団のメンバーを演じた俳優さんたちはそれぞれ、自分で撮影に入る前に勉強してくれて、京都での撮影の前にみんなで野田市の慰霊碑に行って、手を合わせてきたり、香川で行われた部落のフィールドワークに一人で参加した俳優もいたらしい。
撮影の前は、福田村事件はもちろんだけど部落問題についても知らない人もいたかもしれないけど、しっかりリサーチして、台詞がない人まで役作りをしてきてくれた。後で聞いたけど、瑛太さんはカメラオフでもリーダーシップを持って、みんなに『ちゃんと勉強しよう』と言ってくれていたらしい」
──ものすごく頼りになりますね。田中麗奈さん演じる静子は、日本人統治下の朝鮮半島において、支配層で育った裕福な家庭の女性であり、コスモポリタンとして育った強みももっています。
「とにかく天衣無縫な女性というイメージです。でも芯がある。周囲に流されない。だからああいう言動ができるんじゃないかと思う」
──こういう共同体から外れた女性が、村人が集団となって、暴徒化しだしたら、どういう行動を取るのだろうと、自分自身と重ねながら、ハラハラしながらみることになりました。
「そうですね。そこに自分がいたら、どうするのかと思いながら見てくれるのが1番面白いかもしれない。
資料に関しては、脚本の佐伯さんたち大ベテランが相当に読み込んでくれてストーリーに肉付けしてくれました。行商団と対峙した村人たちが興奮し始めたとき、ちょっとこれは違うんじゃないかと思っていた人もいたかもしれないけど、声が出せない。100人以上の単位になると、その中で、ひとり、反対の声を上げるっていうのは本当に難しい。みんな、気が立っていますから。逆に声をあげたら、暴力が自分に向かってくるかもしれない。始まったらもう、止めようがないんです。だから、いかに、暴力が始まらないようにするしかない」
──個人としては穏やかな人たちが、集団となると思ってもみない残虐な面を露わにするというのは、森監督がずっと映像作品や著書で訴えていることですが、一個人として、集団の大きな流れに抗うにはどうすればいいと思っていらっしゃいますか?
「まずは情報に対しての接し方。つまりはリテラシーを常日頃、持つことが大事だと思う。
僕がよく使う言葉だけど、主語を1人称として考えることが大事だなと。生きている以上、様々な集団に帰属することは仕方ないことで、避けられない。でも、集団に属しながらも、『私』とか『僕』とか、一人称単数の主語を使い続ければ述語は変わらない。『我々』とか集団の名称を主語にすると述語が変わってしまう。
そもそも東アジアって、集団化と相性がいいような気がするんです。ただ、韓国や中国の人たちは、いい意味でも悪い意味でも日本人より個が強い。日本人は集団化に馴染みやすく、個が弱い。1番危険です。その1番危険な国が、歴史認識は浅いまま、自分たちの過去の失敗を全く振り返らない。1番ダメじゃんと思います」
──関東大震災から100年経って、例えば大杉栄と伊藤野枝の虐殺に関して今でもは広く知られていますが、今作においては、亀戸事件を扱っています。社会主義者である10名の市民が警察にとらえられ、陸軍の習志野騎兵第13連隊によって殺害された事件で、私は全く知りませんでした。
「僕も事件の名前は知っていたけれど、詳しくは知りませんでした。これは荒井晴彦さんの提案です。大杉栄が殺されたのは15,16日あたりなので、時系列的に映画には収まらない。震災の混乱に応じて、朝鮮人だけじゃなく多くの中国人や日本人、さらに社会主義者も殺された。カトウシンスケさん演じる平澤計七はプロレタリア演劇の先駆者で、彼の活動がやがては築地小劇場などに繋がっていきます」
──日本では関東大震災を機に、「治安維持のためにする罰則に関する件」と呼ばれる後の治安維持法の前身になる勅令が出され、後の、戦時中の思想の弾圧へと結びついていきます。
かつて日本で数々の思想や言論弾圧を引き起こし、平沢さんをはじめ、多くの犠牲者を生み出した「治安維持法」について、2017年6月2日の衆院法務委員会で当時の金田勝年法相は、「当時、適法に制定されたもの。同法違反の罪にかかる拘留、拘禁は適法だ」と擁護して、驚いた記憶があります。東京都では、小池百合子知事が2017年から、関東大震災の日、朝鮮人被害者への追悼式典への追悼文を取りやめにしているということが起きています。
「震災をきっかけに軍事国家への道筋が露わになったことは確かです。多数の虐殺があったことは、政府の中央防災会議も認めています。平安時代や鎌倉時代の事件ではない。たった100年前です。証言やエビデンスはいくらでもある。それなのになぜ否定できるのか。
小池都知事の現在のスタンスは、過去の過ちを否定したい人たちにとっては、ひとつのお墨付きになっていると思います。ただ、逆風ばかりではない。今年になって、各地で起きた朝鮮人虐殺の様子を描いた絵巻が見つかり、東京・新宿の高麗博物館で7月5日から公開されています。震災の3年後、福島県出身の元教員の画家が描いた可能性が高いとの記事を読みました」
──国立映画アーカイブでは、昨年、震災直後、文部省による司令で、多くのカメラマンが撮影した長篇記録映画『關東大震大火實況』のデジタルデータを公開していますが、映像文化史研究者の森田のり子さんのコラムにあるように、朝鮮人虐殺や、自警団についてのフォーカスは一切、なされていません。
「国は公式の機関として、朝鮮人虐殺の記録を持っている。ただ、公式に持っているのに、東京都は公式に追悼しないというのは、意味がわからない」
──森監督は、この映画のラストを、襲撃から生き抜いた薬の行商団の少年の顔で終わらせていますが、彼は当時、14歳ぐらいで、昭和の戦争ではおそらく30代。その後の人生はどうしたものか、戦争を生き抜いて、戦後の自由を獲得できたかなって、胸が詰まる思いがしました。
「彼は生き抜きました。シナリオハンティングで香川を訪ねた時、お孫さんに会うことができました。事件については何も語らなかったそうです。ただ、晩年に郷土史家の求めに応じて、事件について語っています。お孫さんから、『じいちゃんはたまに夕方、縁側で、1人で酒を飲みながら泣いていた』と聞きました。『今思うと、 事件を思い出していたのかね』と。つらい記憶を内に秘めながらだけど、必死で生き続けたのだと思います」
──ああ、よかった。森監督にとって、これが初の実写映画となりましたが、ご自身の色は出せましたか。
「これは反省でもありますが、前半から中盤までは、全く森らしさがないぞってよく言われて、その通りだなって自分でも思います。チームですから自分の色を100%出せなかった。それは本当に悔しい。
でもテーマとして僕がやりたかったことは十分に体現できてるし、だから今もこうして取材を受けている。まあ、僕自身は、今後の方向として、ドラマでも、ドキュメンタリーでも、こだわりがないんで、テーマで考えようと思っています。実は3年前から、コロナ禍で一時期中断していますが、ドキュメンタリーを撮っています。テーマについてはまだ詳しく話せませんが」」
──最後の質問ですが、森監督自身は、『福田村事件』の登場人物において、最も自分に近しいと思う人物はどなたですか?
「朝鮮人虐殺が起きた時代は、今と重なる領域がとても多いと実感しています。そのひとつは世界的なパンデミック(スペイン風邪)。もうひとつは未曽有の震災。そして大正デモクラシー。民本主義や自由主義という概念を、この時代に多くの人が知りました。
人権とか男女平等、政党政治や部落差別解放運動、ストライキ権の獲得とかが実現しながらも、いつのまにか軍事国家になってゆく。今も日本は、ロシアや中国や北朝鮮の脅威を理由にしながら、大きく軌跡を変えようとしている。デモクラシーはロジックだから不安と恐怖などのエモーションに圧倒される。
だから、映画の中でも豊原功補さんが演じる村長や、井浦新さん演じる澤田というリベラルな男性は『村を守れ』といきりたつ民衆を前にして力が及ばないんだけど、それでも近代的理性をしっかりとみんなが持てば、ああいう過ちを繰り返す時代は来ないと思いたい。まあ、今、来てるじゃんって言われてしまうとそうなのかもしれないけれどね。
僕自身は、豊原さん演じる村長が、自分にいちばん近いかなという気がします」
民主主義や自由主義を求める大正デモクラシーの機運が高まる中、メディアは政府の失政を隠すように社会主義者や朝鮮人を槍玉にあげ世論を煽り、市民の不安と恐怖は徐々に高まっていた。 日本統治下の京城で教師をしていた澤田智一(井浦新)は朝鮮で日本軍による虐殺事件を目撃し、妻の静子(田中麗奈)と故郷の千葉県東葛飾郡福田村に帰ってくる。穏やかな日々を送ろうと思っていた矢先、関東大震災が発生。朝鮮人が暴動を起こしているという流言飛語が関東近縁の町や村に伝わり、2日には東京府下に戒厳令が施行。福田村にも不安が広がる中、たまたま香川県から薬の行商に来ていた一行が村に足を踏み入れようとしていた。長い間、公に語り継がれていなかった悲劇を、関東大震災100年を機に、改めて検証し直した人間ドラマ。
2023年9月1日(金)より、テアトル新宿、ユーロスペース他にて全国公開。
監督:森達也
出演:井浦新、田中麗奈、永山瑛太、東出昌大、コムアイ、木竜麻生、松浦祐也、向里祐香、杉田雷麟、カトウシンスケ、ピエール瀧、水道橋博士、豊原功補、柄本明
配給:太秦
2023年/日本/ 137分/ PG-12
©「福田村事件」プロジェクト2023
『福田村』公式サイト撮影/山崎ユミ
映画ジャーナリスト
兵庫県神戸市出身。関西学院大学卒業後、一般企業を経て映画業界に。約30年で1000人以上の映画監督や映画俳優のインタビューを実施。映画誌、劇場パンフレット、新聞などで映画評を執筆。著書に『ブロークン・ガール 美しくこわすガールたち』、共著に『伝説の映画美術監督たち×種田陽平』。映画祭の審査員、トークイベントなど講演・司会も多数。
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