事実は小説より奇なり、イギリスの老夫婦が世間に訴えたかったこと。
ロンドン・ナショナル・ギャラリーから消えたゴヤの名画の行方は? 鍵を握るタクシー運転手を演じたのはジム・ブロードベント
イギリス、ロンドンの観光スポットとして知られるトラファルガー広場に面した世界屈指の美術館、ロンドン・ナショナル・ギャラリー。レオナルド・ダ・ヴィンチの「岩窟の聖母」やフェルメールの「ヴァージナルの前に立つ若い女」、ゴッホの「ひまわり」など世界的に知られる2,300点を超えるヨーロッパ絵画を所蔵しています。
このロンドン・ナショナル・ギャラリーからかつて名画が盗まれ、大騒動になったことがあります。スペインの画家、フランシスコ・デ・ゴヤが描いた「ウェリントン公爵の肖像画」。ニューヨークの収集家チャールズ・ライツマンが購入してアメリカに持ち帰ろうとしたところ、肖像画のモデルがナポレオン戦争の英雄だったことからイギリス政府がライツマンの購入金額と同額(140,000ポンド(390,000ドル))で買い戻し、鳴り物入りで1961年8月2日、披露することになったのです。ところが19日後、この絵が何者かに盗まれてしまいます。スパイのしわざ? それとも国家間の陰謀? 犯人捜しが躍起になって行われていた最中、かの有名なスパイ映画「007」シリーズの劇場公開一作目である『007/ドクター・ノオ』では、ジェームズ・ボンドの敵、ドクター・ノオの部屋にこの絵が! 当時のイギリスのホットな話題だったことが見て取れます。
この事件の知られざる背景を題材にしたハートウォーミングなコメディが『ゴヤの名画と優しい泥棒』。『ノッティング・ヒルの恋人』のロジャー・ミッシェル監督の遺作となり、今回は撮影を共にしたプロデューサー、ニッキー・ベンサムさんにお話を伺いました。
©Misan Harriman
●プロデューサー/ニッキ―・ベンサム(Nicky Bentham)
ロンドンを拠点とするネオン・フィルムズの創設者兼プロデューサー。最近では、フルウェル 73280との共同制作による長編ドキュメンタリー「Who Killed The KLF」を制作。主なプロデュース作品はダンカン・ジョーンズ監督、サム・ロックウェル主演の SF 映画『月に囚われた男』、バーバラ・ブロッコリが製作総指揮を務めた『サイレント・アイランド 閉じ込められた秘密』、Netflix が取得した子供向けダンス映画「You Can Tutu」、英国アカデミー賞にノミネートされた劇場用長編ドキュメンタリー映画「Taking Liberties287」などがある。ベンサムは 2012 年から 2015 年にかけて、BFI(英国映画協会)の短編映画スキーム・プログラムのエグゼクティブ・プロデューサーを務め、英国アカデミー賞(BAFTA) やウーマン・イン・フィルム・インターナショナル(WFTV)のメンバーとして活躍している。
ゴヤの名画を盗んだ犯人の孫から、メールで映画の売り込みが⁉
『ウェリントン公爵の肖像』は、スペインの画家フランシスコ・デ・ゴヤが1812年から1814年に描いたとされるもの。 描かれている人物は、イギリスの軍人でスペイン独立戦争(半島戦争)で活躍した「初代ウェリントン公爵」のアーサー・ウェルズリー(1769-1852)。
──『ゴヤの名画と優しい泥棒』の企画は、ある日、ニッキーさんのもとに、名画を盗んだ犯人の孫から映画化の売り込みのメールが来たことから始まったと聞きました。詳しい経緯を教えてください。
「この映画ではジム・ブロードベントが演じている主人公のケンプトン・バントンの孫にあたるクリストファーさんから、『僕の家族にまつわるストーリーが映画に向いているかもしれない』とメールが届いたんです。そこに一段落だけのあらすじが書かれていたんですね。それを読んで、これはいい映画になるかもしれない、面白くなるかもと思ったんですけれど、実のおじいさんがゴヤの名画を盗んだ泥棒だったという話とその真相は、ちょっと出来すぎた話だなとも感じ、自分でいろいろとリサーチを始めました。深く調べるほど、『本当の話だ!』と興味を募らせ、彼に返信をして、プロジェクトが動き始めたということです」
主人公のケンプトン・バントンはシニア世代におけるBBCの無料化の運動をしていた
──映画のネタバレに抵触してしまうので詳しくは聞けないのですが、ケンプトン・バントンさんはタクシーの運転手だったのに、なぜ、ゴヤの絵を盗んだのか。ケンプトンさんはどういう人だったとクリストファーさんから聞いていますか?
「彼はとてもおしゃべりな人だったので、タクシー運転手として、いろんなお客さんを乗せて、いろんな話をしていたそうなんです。で、年配のお客さんを乗せたとき、多くの男性が戦争からの帰還兵で、障害を負っていたり、孤独な生活をしていたり、苦しい事情を垣間見ることが多かったんです。ケンプトンの父親も、第一次世界大戦で怪我を負って、戦後はずっと車椅子生活を送っていました。自分の父親世代は国のために戦ったのに、戦後は十分な補償や支援が足りず、社会から孤立して生活している。その姿を見ていて耐えられなかったという思いがあったんですね。どうにかして、彼らを助けたい。そんなときに、国がかつての戦争の英雄の肖像画をかなりの値段で購入すると聞き、憤るわけです。
彼の活動は多岐にわたっていましたが、かなりこだわっていたのが、シニア世代に向けて国営放送であるBBCの受信料を無料にする活動でした。彼自身、エンタメが好きで、テレビも大好きで、自分が書き溜めていたストーリーや回顧録をBBCでドラマ化されたいという希望を持っていたようです。そのシナリオや物語も孫のクリストファーから読ませてもらいました。教育を十分に受けられなかったために、出来としてはまあまあだったんですけれども、心から思ってることを素直に書いていて、伝えたいことがたくさんあったんだろうなと思います。脚本家になる運命ではなかったのかもしれないですけれども、文章から思いは伝わって来ました」
『クィーン』のヘレン・ミレンは、この映画ではすっぴんで演じています
社会運動に熱心な夫に愛ある口撃を浴びせつつ、家政婦として一家を支えるドロシー
──ケンプトンの夢見がちな性格を、しっかり者で現実主義の妻、ドロシーが支えています。ケンプトンを演じたジム・ブロードベントさんも、ドロシー役のヘレン・ミレンさんもドレスアップをするととてもゴージャスな方たちですが、今作では庶民の生活ぶりを実に丁寧に演じていますね。
「監督のロジャー・ミッシェルがこだわっていたのが、役者のリアルさです。作り上げられていない雰囲気を求めていました。なので、ドロシー役にヘレンをキャスティングするとき、ちょっとだけ心配していましたね。王冠を被ってゴージャスなドレスを着ている『クィーン』のエリザベス二世の印象が強いので、彼女に大丈夫かと不安を漏らしていたんですけれども、ヘレン自身、乗ってくれて、役になりきっていました。
ドロシー本人の写真は2枚ほどしか残っていないんです。なので、1950年代、60年代のイギリス北部の街の様子や風習がわかる写真を調べて、どういう服装をしていたのか、どういう髪型だったのかと、細かくリサーチしてルックスを作り上げたんですね。ヘレンは積極的にドロシーになりきっていて、体にパットを入れて体形を変えたり、家政婦という職業柄、常に爪が汚れていたり。
あと、ノーメイクで演じてくれたのはすごい! やっぱり素晴らしい女優だと感じてました。特に印象深く残っているのが、夫婦の住む家のリビングで初めて撮影する時、ロジャーが、夫婦が部屋の中ではどういう雰囲気で過ごしているのか確認したいと、ドロシーならどの席に座るかなど細かいところから決めていこうとしたんですね。その時にヘレンが椅子に座って、いきなり編み物をし始めたんです。ヘレンは編み物が得意なんですけれども、もうその姿が完璧にドロシーという女性を捉えた仕草で、驚きました」
原題は『THE DUKE』。お披露目の場での主演二人はとってもゴージャス。中央はニッキーさん。 ©PATHE PRODUCTIONS LIMITED 2020
ロジャーがいなくなってしまったことは悲劇的な損失です
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撮影中のロジャー・ミッチェル監督とニッキーさん。
『ノッティングヒルの恋人』は世界中で大ヒットしました。
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──ロジャー・ミッシェル監督は日本では『ノッティングヒルの恋人』や『恋とニュースのつくり方』での洒脱な恋愛の会話劇で知られますが、残念ながら昨年9月に逝去されました。優しいタッチの作風の監督だったなと思いますが、一緒にお仕事されてどうでしたか?
「ロジャーは人に興味を持っていました。それも特定の人じゃなくて、広い範囲でのあらゆる人々に興味を持っていました。お昼にカフェにランチを食べに行っても、ウェイターと話したり、撮影現場にいても照明スタッフとか、一日しか来ないようなスタッフにも話掛けていました。人のバックグラウンドや人生について純粋に知りたくて、好奇心を持って話しかけたりしていました。他人への興味と観察力が作品に現れているんだと思います。人々に共感する力も強かった。彼がいなくなったことは悲劇的な損失です」
──映画の話に戻りますが、ドロシーの雇い主の女性は夫が政治家という設定ですが、ゴヤの絵を盗んだ犯人として裁判にかけられたときもずっとケンプトンを応援していますね。彼女は実在のモデルなどいますか?
「グローリング夫人はあの映画のために作ったキャラクターです(※演じているアンナ・マックスウェル・マーティンはロジャー・ミッシェル監督のパートナー)。ドロシーの家の外での生活を見せたかったことと、家の中で夫のいろんな活動に対してあまり好意的に見ていないドロシーの他の顔を見せる相手として配置しました。ケンプトンは色々活動していたんですけど、全部が全部空回りしていたわけではなく、実はそれなりに支援していた人がいたんです。なので架空の人物ではあるのですが、いろんなリサーチを経て、それらの人たちを寄せ集めたのがグローリング夫人となります」
裁判の大ステージで、ケンプトンが一世一代をかけて話しかけたことは?
裁判の行方は……。
──面白いのは、名画を盗んだことを自供して、裁判にかけられるケンプトンですが、グローリング夫人だけでなく、多くの人に名画を盗んだ理由を支持されることです。これが日本だったら、なかなか厳しい反応になるだろうなと思ってしまいました。
「ケンプトンがラッキーだったのは陪審員制度だったっていうことだと思うんですね。イギリス政府も警察も厳しい判決を望んでいたと思うんですけれども、彼の温かい人柄と弱者を思いやる言葉は陪審員の心をとらえて、あのような判決結果になったんだと思います。裁判でケンプトンはとうとうとスピーチをしますけど、それまで自分の話をなかなか聞いてもらえなかったんですけれども、あの裁判で、大ステージに立って、初めて自分の意見を多くの人々から耳を傾けてもらえるチャンスを得た。痛快ですよね」
映像メディアのすべての分野で働く女性スタッフの支援活動をしています
ニッキーさんが活動するウーマン・イン・フィルム・アンド・テレビジョン・インターナショナル(WFTV)は 1997年に設立。映画、テレビ、ビデオなど映像メディアのすべての分野で働く女性の専門的な開発と成果の向上に取り組む非営利団体。現在、世界40か国に支部を持ち、1万人のメンバーが団体に加盟している。 ©BIFA/Nikki Leigh Scott
──ニッキーさんは英国アカデミー賞(BAFTA)やウーマン・イン・フィルム・アンド・テレビジョン・インターナショナル(WFTV)でイギリス映画界の女性スタッフの地位向上のために活動されていると聞いています。具体的にはどのような活動内容か教えてもらえるでしょうか?
「活動としてはいくつかあるんですけれど、WFTVでは、トレーニングプログラムを実施しています。これは、出産や病気、家族の介護などで一時期、映画の仕事から離れた人々を対象としていて、マンデーコースでライフコーチを呼んだり、会計士やタレントエージェントの講義があったりします。仕事は離れる期間が長ければ長いほど、現場への復帰が戻りづらくなります。保育園を確保しなくてはいけないし、仕事探しの問題もあるし、心理面でも自信を無くしたりするので、心理学者を呼んでセミナーを行うこともあります。技術の進歩で新たなトレーニングが必要なときもありますので、復帰する道順を作っていくようなプログラムですね。
他にも雇用主と労働者側の関係においてどういう権利があるのか、チェックリストを作り、ウェブサイトに載せていたりもします。私たちが掲げている目標を達成した組織に与える賞も作って、毎年、授与も行っています。今はコロナ禍でなかなか集まることはできないんですけれども、以前は上映会を行ったり、メンバー間で経験や意見をシェアできるような場を設けていました」
──これは国の助成金などが出ているのでしょうか?
「オーストラリアのウーマン・イン・フィルム・アンド・テレビジョン・インターナショナルという団体は政府からの助成金があるようですが、各メンバー、それぞれ時間をやりくりしてボランティアで運営しています。プロジェクトごとにスポンサーがつくことはありますが、オーガナイザーはとても大変です! 日本でも興味がある方がいたら、ぜひ共闘したいです」
ゴヤの名画と優しい泥棒
1961年に実際に起きたゴヤの名画盗難事件の知られざる真相を描いたドラマ。2021年9月に亡くなった「ノッティングヒルの恋人」のロジャー・ミッシェル監督の遺作となった。1961年、世界屈指の美術館、ロンドン・ナショナル・ギャラリーからゴヤの名画「ウェリントン公爵」の肖像画が盗まれた。世間が大騒ぎする中、家政婦をするドロシーは自宅の部屋に「ウェリントン公爵」の絵があることに気づくが……。60歳のタクシー運転手、ケンプトン・バントンの信念を優しく描く。主人公、ケンプトン役は『アイリス』のジム・ブロードベント、妻のドロシー役を『クィーン』のヘレン・ミレンが演じるほか、フィオン・ホワイトヘッド、マシュー・グードらが脇を固めている。
2020年製作/95分/G/イギリス
原題:The Duke 配給:ハピネットファントム・スタジオ
TOHOシネマズ シャンテ他、全国にて公開中
©PATHE PRODUCTIONS LIMITED 2020
『ゴヤの名画と優しい泥棒』公式サイト