「あたしおかあさんだから」孤独に我慢するのが当たり前ですか?
「おかあさんになるまえ、ヒールはいて、ネイルして、立派に働けるって強がってた」
「今は爪きるわ、子供と遊ぶため」「走れる服着るの、パートいくから」
「あたしおかあさんだから」
「あたしおかあさんだから、眠いまま朝5時に起きるの」、「大好きなおかずあげるの」、「新幹線の名前覚えるの」、「あたしよりあなたの事ばかり」——。
「孤独なワンオペ育児を美化し、母親たちの自己犠牲を礼賛しているように聞こえる」と大きな批判を呼んだ歌、「あたしおかあさんだから」。作詞を担当した男性絵本作家さんの「お母さんたちにヒアリングやエピソード募集をした」との言葉を裏付けるように、なるほど、こういうお母さんたちは、確かにたくさんいる。私にも昔、歌詞と同じではないにせよ似たような場面や、自由がきかずに我慢して苦しかった感情があったことを思い出して、心の奥底がきゅっとする。
でも、「昔は”強がって”仕事していたけれど、子供を産んだ今は身づくろいもままならずパート勤めをして、一人で子供のために尽くす毎日」という、昭和の歌謡曲みたいなおかあさんの描き方に、うんざりしてしまった。なんたって、歌詞の中に「おとうさん」の存在が全く見えない。
作った人がそういう全部一人で引き受けて耐え忍ぶような女性を好きで、それに合致したエピソードを意識してかせずにか選び出した。あるいは、制作に関わった人たちがそれに疑問を持たなかった。おかあさんとはそういうものだと頭っから信じていた。それで現代の母親一般をひとまとめにして「おかあさんおつかれさまの応援歌」と言ってしまうのは、雑だったかもしれない。「わかっていない人がわかったようなことを言っているのが不快」と批判する母親当事者たちが続出したのも仕方ない。
私も、作者や制作に携わった人たちが良かれと思ったのは重々承知しているけれど、わざわざ言葉にして母親たちの不自由さをセンチメンタルに描いて、でも自分(男性)は「応援」することでは何か解決するように見えて何も解決しないんだよなぁ、と、ここ数年のメディアで何度も何度も蒸し返される夫婦の家事育児分担の論争を思った。
「応援」。正直、私も「応援しています」なんて、SNSなんかで調子よく使う言葉だ。でもそれにはどこか「他人事感」の響きがあるのもよく自覚している。直接的には関わらず、自分の時間や体力を割くことはないけれど、「いいね!」の1クリックみたいに応援の念波を遠くからその瞬間だけピッと飛ばしている……感じに聞こえても仕方ない。結局、助けているようで助けていない、そんな薄情な自分にもう一人の自分が「応援って、便利な言葉だねぇ」と皮肉にツッコんでいる。
「ママが欲しいのは応援じゃなくて『仲間』」、「孤独な戦いと疲労から救ってくれるのは、懸命な応援とか上から目線のアドバイスなどではなく、ママと同じ側に選手として立って、ともに戦ってくれる『チームメイト』なのです」。これらは産後の夫婦の協業や新しい時代の夫婦のあり方について発信を続ける狩野さやかさんの近著『ふたりは同時に親になる〜産後の「ずれ」の処方箋』(猿江商會)にある言葉だ。
「応援」に応えられないのは「私の能力や努力不足」?
今回の「あたしおかあさんだから」論争の中には、「どうして女の人って、こういうのにすぐ噛みつくの。どれだけイライラしているの」という、男性や子育てをしてない人たちからのうんざりした意見もまた見られた。
先述の狩野さんは著書の中で、産後に小さな子供を育てているお母さんたちがなぜ他所から見た時に「不機嫌」なのかを丁寧に解説している。「自分の時間がゼロになる」「予想外の(身体の)ダメージが連続」「突然人生の軌道修正を迫られ、ママカテゴリーという未知の階層構造へ」「高プレッシャーにつぶされそう」と、出産育児という環境の大激変はストレスの大量発生源なのだという。
狩野さんによれば、そんなママの深刻さに気づかずパパが応援することは、「崖から落ちそうな妻」に、「がんばって! もっと力を出せるはず! もっと工夫して! ほら、上がってきたら一緒におやつでも食べよう!」と超前向きなアドバイスと応援をしているようなもので、「まるで笑えない喜劇」。
そうだそうだと心からうなずきつつ、私は思う。そんな理不尽極まりない状況で、それでも真面目なお母さんたちは、周囲の応援(だけど手は貸さない)や期待に応えられない自分を「私の能力不足、努力不足なのかな……」と責めたり、自分の辛い状況を「これはきっと自分のためになる」「そうだ、これは私のしたかったことだ」とすり替えて正当化したり(ちなみにそれは心理的な逃避行動の一種)している。それを遠くから見た他人が「感動する」のって、違うんじゃない?
それで「あたしおかあさんだから」という歌は「おかあさんたちの苦しみを第三者が美化し、感傷的に言語化し、無責任に”応援”している」と受け止められ、批判を集めてしまったのだと思う。
いみじくも、狩野さんは著書でこう指摘している。産後すぐの家事・育児をママが一人でできるという「完全な見積もり違い」を前に「仲間として自分も手を出す姿勢を見せ」ないのは「結構残酷な状況で、パパだけが『無傷』を通そうとしているようにすら見えてしまいます」。
「家事が大変? アウトソーシングすればいいのに」「ご飯作るのが大変なら弁当でいいよ」。そう口にした「あなたが」どうして手を動かしてくれないのか。自分が当事者にならずに「アウトソーシングすれば」と言い放つ夫は心もアウトソーシングしている、とはSNSでもよく見かける皮肉だ。
共に生きるはずのパートナーから協力が得られない。ワンオペ育児中の母親は、育児が辛い以上に、孤独が辛い。だからその反作用で男性が驚くような「憎しみ」の感情が生まれてしまうんだろう。
家事「分担」の不公平という、終わらない議論
共働きのカップルが増え、家庭内の家事分担にみんなの視線が注がれるようになったのは、歓迎すべきこと。それは女性活躍推進!とか、女性の就業率向上!とか、地位が、権利がとかの話以前に、私は
男性でも女性でも、家事をしない人生はちょっとつまらない
もっとつっこんで言えば
男性でも女性でも、「家事をしない」と決め込んでいる人はちょっとつまらない
と思うからだ。
家事って、人ひとり生きていたら必ず発生する、身の回りの維持管理。それは「自分に食べさせること」であり、「自分が汚したり散らかしたものを元どおりにすること」であり、一人で暮らしていたらきっと自分なりのペースと法則で(他人からはどう見えようとも)どうにかする、どうにかなっていくもの。その時点では何ら特別なことなんてないはずなのだけれど、なぜだろう、同居でも結婚でも、ひとたび複数の人間が共に暮らすことになった途端、家事はとつぜん難しいものになる。
たぶん、ふたり以上の人間が暮らしを共にすることで、お互いのリズムや流儀やルールを持ち寄るからなのだ。違う暮らしをしてきた大人同士が一つの空間で暮らすぶんには、まだ「やり方が違う」なんて少しくらい文句を言いながらも、お互いを思いやったり調整したりする余裕もある。でもそこに食事から排泄までつきっきりの世話を必要とする赤ちゃんが生まれた時、家事の「負担」という感覚が顔を出す。夫婦「1+1」で始まった家族が3や4となって、大人の負担はグッと増える。「負担」を分け合うという発想が「分担」だ。
ところがこの分担が、難しい。目指すはWin-Winなんて言い始めている時点で、要は不公平なのだ。得とか損とか、どっちがより苦労しているとかしないとか、アンフェア感が生まれてしまうのはなぜなんだろう? それはたぶん、相手を好きで一緒になったという柔らかく湿った気持ちを始点とした関係ゆえに、お互いに甘えたい・委ねたい感情が失望と同時に「なんでやってくれないの?」と裏返るからではないか。支え合うはずの関係が、どちらかが支えられなくなったことをきっかけに、調子を崩す。そんな時にはもちろん再調整が必要なのだけれど、お互い仕事や育児で精一杯のときには「なんで?」と相手を責める感情がまず生じがちで、具体的な調整プロセスを妨げる。
パパ「どこまでやれば認めてくれるの?」、ママ「当たり前のことをやって、”認めて欲しい”って?」
せっかくひととして生まれたからには、あれもこれも見たい、体験したい。面白く、趣のある人生を味わっていきたい。せっかく巡り合ったご縁だもの、あれこれ紆余曲折を経て一緒に生きると決めて、生活の空間も時間も分け合っているのだもの。仕事を通して社会に貢献し自分が必要とされる喜びはもちろん、作ったり・食べたり・洗ったり・しまったり・子供をワクワク育てたり、生きる楽しみだって分け合いたいよね。
そうやって、家事が「労働」ではなくて「ひとが暮らす上で当然生じる作業」であり「楽しみ」とわかっている、人生の味わい方と美味しさを知っている人たちなら、家事は分担したり押し付けたり肩代わりしたりする負担ではなくて、誰がどこまで手と体を動かすかだけのことだ、とニュートラルな家事観を持っているんじゃないだろうか。
だけどまだ依存心があって「それは女の人の仕事でしょ」なんて無邪気な(無神経な?)発言には「だから義務教育で家庭科教育を受けていないアラフォー以上の男はダメだ」とか、「手伝う」なんて言葉尻をとらえて「『手伝う』ってなによ!」とか、世間ではそんな口論ばかりが耳に入ってくる。「ここからここまでは私、そっちはあなたね」っていう線引きをして機械的に分担してみたり、どれだけ妻の方が家事労働をしているかをエクセルに書き出して夫に見せてようやく理解「させ」たり。いざやってみると「クオリティが低い、やり直し!」とキツいダメ出しをされて「どこまでやれば妻に認めてもらえるのか」と悩む、多くのイクメンもいるのだとか。そんな家事がお互い楽しいわけはない、よね。
夫婦は敵じゃない
家事育児で歩み寄れる夫婦の特徴は、家事育児を「やらされて」いないこと。
パパが仲間としてママとチームを組むには、「家事は『スポット型』から『プロジェクト型』へ」、と狩野さんは書いている。スポット型とは、通常ママが切り盛りしている作業の一部をパパが請け負って「ママの部下状態」となること。でも例えばトイレやベランダの掃除、ゴミ管理や特定の日用品の買い物など、家事を何か一つ丸ごと「パパのプロジェクト」として全権委任するプロジェクト型なら、パパが「継続的に責任を持ち、クオリティをコントロール」し、やり方も自分の自由裁量で決めてママに手直しされることもないので、家事の中に「パパの管理テリトリー」をはっきり作れるのだ。
自分のスタイルやペースを否定されることなく、そのプロジェクトに関しては一切の責任を負うパパは、別のプロジェクトを担当するママを部下ではなく同僚として、同じ視線で見ることができる。すると妻のしていることに共感が生まれる。対等に家事育児をするとはそういうことで、そこで初めて夫婦は敵ではなく、「暮らしを共にし、共に生きるチーム」になれるということなんだね。
好きで一緒になったはずが、いつの間に、敵同士になっていたんだろう。
共に生きるはずの伴侶が、相手の辛さに「感動」して「応援」していても始まらない。伴侶にさえも「応援」されることはむしろ心の遠さを印象付け、孤独を深めさせるのみだ。もしおかあさんを本当に応援したいのなら、「俺、水回りの掃除を担当するわ」「休日の食事は一手に引き受けるわ、その代わり初期のうちはクオリティーは不問でお願い」とでも具体的な負担を減らす提案をして出口を作ってあげてほしい。苦しさに「大変なんだね〜」と「感動」して泣いてあげるだけでは、その涙は実のところおかあさんのためには流されていないことを、おかあさんたちは気づいている。
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河崎環 Tamaki Kawasaki
コラムニスト
1973年、京都生まれ神奈川育ち。22歳女子と13歳男子の母。欧州2カ国(スイス、英国)での暮らしを経て帰国後、子育て、政治経済、時事、カルチャーなど多岐に渡る分野での記事・コラム執筆を続ける。2019秋学期は立教大学社会学部にてライティング講座を担当。著書に『女子の生き様は顔に出る』(プレジデント社)。