料理家 今井真実の「食べたいエンタメ」(ミニレシピ付き)第5回
「家族」の瑣末な日常も、積み重なれば美しい物語に。韓国文学『29歳、今日から私が家長です。』を味わう
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今井 真実
2024.06.28
愛しく、時には煩わしい「家族」との日常。跳ねるように軽やかに描かれた「暮らし」の瑣末な出来事。理不尽なことや失敗もあるけれど、それでも淡々とユーモアたっぷりに自分の道を突き進む。人を人として認め尊重すると価値観は自然にアップデートされていきます。これからの家族、人間関係を描いた『29歳、今日から私が家長です。』(イ・スラ著、清水知佐子訳/CCCメディアハウス)はなんとも爽やかで痛快な小説です。
Yummy!
今月のミニレシピ
ポキの味噌と私の冷汁
この本を読んでいると無性にお味噌を味わいたくなりました。 汁を切った鯖の水煮缶1個にお味噌大さじ3、練り胡麻大さじ2、 梅干1個、お水250ccを混ぜたら、絹漉し豆腐1丁をざっくり入れて。仕上げに、かいわれ大根をハサミで切ってひと混ぜしたら出来上がり。
売れっ子作家で家長の娘が両親を社員として雇い、「家事」を「報酬化」する理由
主人公の女性スラは、毎日締め切りを常に抱えて、取材も常に絶えない売れっ子作家。そして彼女は家族の中でも稼ぎ頭で家長として君臨し、尚且つ両親を自社の社員として雇い入れています。彼らの住まいは自宅兼会社。生活と仕事が密着しています。
母であるポキは、味噌やキムチも手作りするほどの料理の腕前。日々栄養満点のご飯を用意して、そればかりかスラの出版業務を手伝います。 父であるウンイも、スラの買った家に妻のポキと共に住まい、彼女たちを支えています。彼は運転手や庭の整備もしながら、毎日欠かさず全ての部屋に掃除機をかけて、モップで床を磨き家中をピカピカに保っています。
スラは彼女の小説や発信から、世間的には家事や暮らしにも丁寧に向き合う作家として認識されています。その評判通り、彼女は一人暮らしのときには全ての家事をテキパキとこなし、部屋をモデルハウスのように保っていました。しかし今は全ての家事労働を両親に外注しています。それによって、彼女は心置きなく執筆に集中できるのです。
丁寧に美しく衣食住を整えるにはとても労力がかかります。日々の家事に終わりはありません。大忙しの今のスラには不可能なこと。しかしその一つひとつの作業を行ってきて大変さを理解して、敬意を持っているからこそ、スラは新しい家長として「家事」をきちんと「報酬化」することにします。
会社組織として自分の両親を雇用し、業務中は社員として敬語をお互いに使います。読んでいると、くすっとしたり、はっとしたり、ほろりとしたり。彼らの家族に感じたのは、自由さ、温かさです。そしてかつてウンイとポキがスラを育てるためにどんな苦労も厭わずに懸命に生きてきたからこそ、今この暮らしを大切にしているということがわかります。
スラは、大切な保存食の仕込み仕事の時期にはポキに「味噌ボーナス」「キムジャンボーナス」を与えています。なぜなら、それはスラにとってもなくてはならない価値のあるものだからです。彼女にとって自家製の味噌もキムジャンも生きるために必要なものなのです。
かつてスラの祖父(ウンイの父)が家父長だった頃、ポキの料理や家事労働は多くの家と同じく無償でした。しかし言い換えると、数々の料理も、手作りの味噌もキムジャンも、ポキの才能は搾取されていたことになるのです。
「家長」となった娘と「家父長」だった男性との戦いの物語と思いきや…良い意味で予想を裏切られます
さて、この本には、タイトルに「家長」という言葉が入っていますね。私はこの本を読む前は「家長」となった娘と、「家父長」だった男性との戦いの物語だと思っていました。男社会の家を女性たちが乗っ取るくらいのお話かと……。しかし、この本に出てくるスラのお父さんウンイは、家長という権威には固執していません。彼はスラのことも、ポキのこともとても尊重しています。ただ男だからと言うだけで、妻と娘を従わせようという価値観が彼にはありません。娘の生理中には温かいお茶を淹れてあげるし、どんな時でも妻と話し合います。やさしいと言ってしまえば簡単ですが、彼はとても平等な価値観の持ち主で、さまざまな仕事をしてきたからこそ他人を他人として認識して尊重できるのだと思います。
こんなエピソードがあります。ある日、ウンイはタトゥーを入れようとします。しかし、その模様に悩んでいました。そんな父親に娘のスラはアドバイスをします。
「強く見せようとするタトゥーはかえって弱く見えます。美しいおじさんになるのは容易なことではありませんよ。お父さんみたいな中年男性ほど、謙虚な可愛らしさを追求するのが賢明な選択です。」
ウンイは娘の言葉を聞き、自分の仕事道具であるモップを片腕に、もう片手には掃除機のタトゥーを入れます。なぜなら、それは彼の毎日の役割だからです。それを見て妻であるポキは「あなた、とってもまじめに見えるわ!」と言います(なんてキュートな反応!)。彼はいつも彼の役割をこなしているだけ。片付けるものが毎日生じるのは当然だ、と現実を淡々とこなしています。彼のタトゥーには彼のアイデンティティを感じます。
母の作る味噌も家族も永遠じゃない。だからこそ「あなたのことを尊重している」と家族間で伝え合う
ポキはひたすらに明るい人。私がバスでこの本を読んでいて思わず吹き出してしまったのはこのくだり。
彼女は映画好きで、心の中にはいつも1000編以上の映画の思い出で溢れてかえっています。しかしそれとは裏腹に、彼女はタイトルと俳優の名前を覚えるのはどうも苦手なよう。この時もポキは俳優の名前が思い出せませんでした。
「背が高くて、鼻が高くて、三枚目のようで二枚目みたいな人がいるじゃない。名前に『アダム』が入っていたような気がするんだけど……」 その時の私は、心の中で「アダム・ドライバー!」と叫んでいました! 韓国にもそして、少し歳の離れた人も同じことを思っていたなんて……(ファンの方ごめんなさい。でも私も好きです) 。
そしてポキは料理の天才です。スラへの来客は、ポキの手料理が目当てだったりすることも。スラはポキがいなくなるのが長年の悩みです。ポキの味噌は絶品で彼女がいなくなったら、あの味を再現するのにはどうすれば良いのだろうか、と思います。人が消えるとその人の作り出していた味も消滅するのです。
心配するのはそこ?と思われるかもしれない描写ですが、それほど彼女の中では、ポキの作った料理を家族3人で食べるということが大切な時間なのです。普段はクールなスラの母へ思いは、実は食べ物だけではなく母の存在そのものだということが伝わってきます。 永遠ではないポキ。それはウンイも、そして本当はスラだって変わりありません。生活に終わりがないと思っていますが、いずれ全て風のように消え去っていく。だからこそお互いを大切にしている、あなたのことを尊重している、と家族間でも伝え合わなくてはいけないのかもしれません。
読みながら幾度となく、家族の顔を思い出しました。この小説は、毎日を生きる全ての人への賛歌です
ある日ポキはキムチ作りのために実家に帰ります。家族総出で白菜120株を使いキムチを仕込むのです。かつてポキは実家の貧困のために大学進学をあきらめました。彼女の家はとても貧しかったのです。そしてポキの母ジョンジャは読み書きができません。スラは祖母のジョンジャについてエッセイを書きましたが、ジョンジャは読むことができないので、ポキが読み聞かせました。
ジョンジャは娘であるポキを大学進学させてあげられなかったことを今でも思い出しては涙を浮かべ悔やみ続けています。 しかし、今では孫であるスラは作家になりました。学ぶこと、そして言葉を紡いでいくことへの想いが世代を超えて、脈々とスラにまで流れついたのです。
さて、家族小説ではあるこの本ですが、私にとっては胃が痛くなるような描写がたくさん。なぜならスラの「作家」としての仕事小説でもあるのです。作家という人がどういうふうに日常を過ごしているのかが垣間見え、興味深い話がたくさん! いつも締切に追い詰められているスラの様子にも、自分のようにキリキリしてしまいました。 だってこの状態、今の私…! この原稿を書いているのがまさに締切日。もうあと13分で日付が変わってしまったらアウトです。
思えば昨日からずっと頭にはあったのに。この本をもう一回おかわりで読み始めちゃったら面白くて、ぐすぐす同じ箇所で泣いて読むのが止まらなくなってしまったんですよね……。スラも締切がありすぎて、その生活に慣れてしまったと書かれていますが…… 今日も明日も暮らしは変わりません。家族の日常は決してドラマティックではなく、ひたすらにその積み重ねです。しかしいつかその薄い薄い層の重なりはいずれ美しい物語になります。読みながら幾度となく、家族の顔を思い出しました。永遠ではない私たち。この小説は、毎日を生きる全ての人への賛歌です。
(『料理家 今井真実の「食べたいエンタメ」(ミニレシピ付き)』は毎月第4金曜日朝8時更新です。次回をお楽しみに!)
Staff Credit
撮影/今井裕治
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