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映画ライター折田千鶴子のカルチャーナビアネックス

母ジェーン・バーキンへのラブレター。映画『ジェーンとシャルロット』で母娘の関係を見つめ直した、シャルロット・ゲンズブールさんインタビュー!

  • 折田千鶴子

2023.08.03

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ジェーン・バーキンさん突然の訃報

世界に衝撃が走ったジェーン・バーキンさんの突然の訃報(2023年7月16日)。人々が大挙して押し寄せ涙ながらに静かに見守った、まるで国葬のようなニュース映像に驚かれた方も多いのではないでしょうか。

みんなが共有している悲しみや大きな喪失感がありありと伝わってきて、改めて“ジェーン・バーキン”という存在が、いかにファッションやカルチャーシーンで、あまりに大きなアイコンであったと痛感させられました。

そんなジェーンさんとフレンチポップのレジェンド、セルジュ・ゲンズブールさんとの間に生まれたのが、シャルロット・ゲンズブールさん

初主演作『なまいきシャルロット』(85)で一躍注目を浴びて以来、女優・歌手として活躍し続けてきたシャルロットさんが、世界中から注目されてきた知られざる“母娘関係”を明かしてくれました。というよりも、“自ら探索・探求に乗り出した”という方が近いのが、この実に興味深いドキュメンタリー映画『ジェーンとシャルロット』です。

カメラを向けることによって互いに緊張感を持ち合う様子もリアルですが、それまでの母娘の間に“気まずさ”や“遠慮のようなもの”を互いに持っていたと語る率直な言葉にも驚かされたり……。互いに初めて吐露する気持ち、過去の出来事、自己について、家族について、それまでの人生、別れた恋人やパートナーについてなど、色んな本音が飛び出します。

シャルロットさんが母にカメラを向けながら、本当に聞きたかったこと、知りたかったことへ、いかに手を伸ばしていくのか――。それはスリリングでもあり、温かくもありユーモラスでもあり、娘として切実でもあり、世の母娘にとって身に覚えのある普遍的な感情や関係でもあるのです。

それでは映画の内容を差し挟みながら、シャルロットさんに色々とお聞きしたいと思います!

シャルロット・ゲンズブール
1971年7月21日、イギリス・ロンドン生まれ。父は歌手で映画監督の故セルジュ・ゲンズブール。母は女優・歌手のジェーン・バーキン。11歳のとき映画『残火』(84)で女優デビュー。初主映画『なまいきシャルロット』(85)でセザール賞有望若手女優賞を史上最年少で受賞。『小さな泥棒』(88)でセザール賞主演女優賞に史上最年少ノミネート。以降、数々の映画に出演し、『ラブetc.』(96)、『21グラム』(03)などでフランスを代表する俳優に。『ブッシュ・ド・ノエル』(99)でセザール賞最優秀助演女優賞を受賞、『アンチクライスト』(09)でカンヌ国際映画祭主演女優賞を受賞。その他、『メランコリア』(11)、『誰のせいでもない』(15)、『母との約束、250通の手紙』(17)、『午前4時にパリの夜は明ける』(23)など多数。俳優で監督のイヴァン・アタルとの間に、3人の子供がいる。

『ジェーンとシャルロット』はこんな映画

フランスを代表する伝説的歌手セルジュ・ゲンズブールの元パートナーと娘であり、それぞれの時代を“アイコン”として彩って来たジェーン・バーキンとシャルロット・ゲンズブール。両親が別れて以来、父の元で育ったシャルロットが、2人の異父姉妹に感じて来た自分より母と近しいという嫉妬、どうしても確かめたかった母の愛を求めて、カメラを握って母の本音を聞き出そうとしたドキュメンタリー映画。

──2人の間に長い間、緊張感があったことを初めて知りました。シャルロットさんが本作を撮ることによって、そんな関係は少し変わりましたか?

「その質問、とてもよく聞かれるの(笑)。確かに撮影中は変わったなと思いました。でも撮影が終わったら、また元の関係性に戻ってしまって……。ただ本作を撮ったお陰で、母に対してこれまで感じたことがなかった親しみや、とても近しい存在であることをしっかり感じることが出来ました。撮影中はほぼ毎日のように会い、日常的に一緒に過ごすことがごく自然な形で出来たので。柔らかい安心感のようなものが生まれて。それはやっぱり私にとっては、すごく大きかったですね」

──撮影はとても濃密で、2人にとって、とてもいい時間になったんですね。

「本当にそうですね。母も最終的には、とても撮影を楽しんでくれました。私はもっと母と一緒にいるために、いくつもの口実を作って、できるだけ撮影を長引かせようとしたんです(笑)。今度はこういう場所に行ってみようとか、今度は庭いじりの場面を撮ってみようとか、次から次へと提案して……。でも十分に素材が溜まった時点で、そろそろ編集作業に入ろうかな、という気持ちになれました」

なんと日本から撮影スタート!

──映画は、ジェーン・バーキンさんが日本でコンサートを行うシーンから始まります。観ていてとても嬉しくなってしまいました。ただあの時点では、いわゆる脚本的なものはなかったように見えます。

「ありませんでした。当初、母が「シンフォニック」というツアー(2017年8月にBunkamuraオーチャードホールで開催)を準備していたので、そのツアーに乗っかろうと思っていただけというか。両親が作ったラブソングが全て網羅されてるようなツアー内容(セルジュ・ゲンズブールさんの楽曲をオーケストラ・アレンジでカバーした発売中のCD『シンフォニック・バーキン&ゲンズブール』を、東京フィルハーモニー交響楽団と共にジェーン・バーキンさんが歌い再現したもの)で、私自身そのツアーにとても強い思い入れがあったんです」

映画の冒頭、日本を訪れた2人が映画について話す様子が映し出されます。小津安二郎監督も映画を撮った“茅ヶ崎館”にて。

「当時、私はニューヨークに住んでいたので、母の日本ツアーに一緒についていってその模様を撮るという口実を見つけ、母にツアーの様子を撮影させてくれとお願いしました。ある程度は映画にするという計画がありましたが、そのツアーを中心に、いくつかの場所を母が訪ねる姿を撮っておこうと考えていて。それが本作の出発点になりました」

──そこから、ジェーンさんが撮影を嫌がったりするなど、紆余曲折があったわけですね。

「日本で母を撮り始めた当初、私は、姉のケイト(・バリー/ジェーンさんと作曲家ジョン・バリー氏との間に生まれた長女。ケイトさんは2020年に逝去)と妹のルー(・ドワイヨン/ジェーンさんと映画監督ジャック・ドワイヨンとの間に生まれた3女)と私の、3姉妹にそれぞれの場所を紐づけて構成しようと思ったんです。日本はケイトを中心にし、ニューヨークはそこに住んでいる私を、そしてフランスやイギリスでルーを撮ろう、と」

「ところが色々なことがあり、コロナも始まって国をまたいだ移動もできなくなり、ルーからも“この映画に私が出る幕はないと思う”と言われ、構成を変えることになりました。結局、徐々に撮影を進めながらシナリオを作りつつ、最終的に出来た映画の形になったわけです。母が写真撮影しているスタジオ、あるいは2人でベッドに入って喋ったり、父セルジュが住んでた家を訪れたりすると、それぞれの場所ごとに、それぞれ湧き上がってくる色々な話題があったので、その場所でそれぞれを物語ることになっていきました」

セルジュ・ゲンズブールが住んでいた家に、何十年ぶりに足を踏み入れたジェーン・バーキンさん。当時の思い出が色々と溢れてきます。

──冒頭の映像でも渋谷の街が上手くコラージュされていたり、カッコいい映像が多かったですが、とりあえず色々な場所でたくさん映像を最初から押さえていこう、という感じだったのですか?

「渋谷の映像は撮影監督が撮ってくれたものですが、このプロジェクは非常に小さなチームで進められました。その分、みんな意識や意志が高い人たちで、しっかり関わりながら私をサポートしてくれました。そんな状態だったので、撮影監督が色んな場所を歩き回って、いい映像を撮り集めてくれていたんです」

──シャルロットさん自身もお母さんを撮られていましたが、映画には実に多様で色んな映像のタッチがあって、それも面白かったです。

「芸術監督として参加してくれたナタリー(・カンギレイム)は古くからの私の友人で、これまでミュージック・クリップ作りも一緒にして来ましたが、彼女が私に“あらゆるフォーマットで、とにかくたくさん撮影した方がいい”とアドバイスしてくれました。だから私は常に、写真やポラロイド、16ミリフィルムから、80年代のビデオ映像を彷彿とさせるスーパー8まで、そしてもちろんデジタルでも、あらゆる種類の映像を撮り溜めました」

あらゆるフォーマットで、あらゆるシーン、その時々の母の姿をとにかく収めていったとシャルロットは語る。

「やはりドキュメンタリーって、とても孤独な撮影作業なんですね。特に今回は自分の母親についてだし、私自身どうしたらいいのか最初は分からないことだらけで。自分で母を撮ることに最初は気後れもしていたので、周りの方のサポートの力は本当に大きかったです」



特有な母娘の関係

──お母様は3人の娘の中でも、特にシャルロットさんに対して気後れしていたと告白しています。小さな頃から特別な存在で、他の2人とは違っていた、と。お母様との間に何となく距離が出来たのは、やっぱりお母さんがお父さん(セルジュ)の元を去った頃からのことなのでしょうか。

「確かにその頃からかな。父と別れた母が別の生活を始め(1981年に映画監督ジャック・ドワイヨンと結婚)、父も新しいパートナーと暮らし始めました。そんな新しい家庭環境でも、私自身はそれまで通り幸せを感じていましたが、そうして別々の生活を始めたことが、ひとつの契機になったかもしれません」

「当時の私は思春期の真っただ中で、同時に映画の仕事も始めたので、撮影のために自宅から離れることも多くなったんです。女優として自分の道を歩き始めたのと、家からも母親からも離れる時期が重なったんですね。そして私が19歳の時に父が亡くなり、その頃ちょうど今のパートナー(俳優で映画監督の)のイヴァン(・アタル)と暮らし始めました。私とイヴァンの生活はちょっと特殊だったというか、他から隔絶されたような本当に2人だけの生活だったんです。だから益々母と会うことも少なくなっていきました」

とっても懐かしい、シャルロットが14~15歳の頃の写真。『なまいきシャルロット』『シャルロット・フォーエバー』で注目された頃。

──実際に同じ仕事をしている者同士として、仕事のことなどお母さんに相談したりアドバイスを求めたりなどは、あまりなかったのでしょうか。

「父は撮影現場などでも、“決して自惚れちゃいけない”など、私の態度等々の問題についてよくアドバイスをくれました。母はアドバイスというより、むしろ身体などのルックス的な見え方や見た目についてよく話をしてくれました。例えば彼女は60年代に濃い目のメイクをしていたけれど、“あれは、あんまり良くなかった。もっとナチュラルな方がいいわ”とか」

「でも私は、そういうことに関して少しコンプレックスを感じていたんです。母はとても綺麗な人だったし、私は彼女のシルエットにとても憧れていて、自分の身体にコンプレックスを持っていたので、逆に“そんなこと母に色々言われてもなぁ……”と感じていました。でも同時に母をよく観察し、真似したいとも思っていた。だから母が履いていたジーンズを真似て履いてみたり。そういう意味でも、女優としての私には母の影響が、色んな形で出ているとは思いますね」

シャルロットさんがコンプレックスを感じるほど、憧れ続けた母ジェーン・バーキンさん。年を重ねてもなお、素敵です!

──シャルロットさんがキャリアを重ねることで、そういう関係にも少しずつ変化があったりしましたか!?

「そうですね。“今こんなことがあってワクワクしてる”とか、今も仕事の話を互いに報告し合っていますし、昔のことについても“あの撮影現場は面白かったね”とか、“あのシーンはちょっと大変だったね”など、2人で面白がってわぁわぁ喋ったりすることは多いんですよ」

「特に私が大人になってからは、いろんな物事に対して共犯関係的な話が出来る存在になりました。同時に仕事でいろいろ抱えているときの良き理解者です。例えば『アンチクライスト』(09)という作品の撮影で、私は極限・究極の体験をしました。突飛なシチュエーションが色々あって、ヌードになるシーンもあって。そんな時も母は、それがどういうことか――ヌードにならなければいけない時、どんな気持ちになるのかなど、すごく理解してくれていました」

ブルゴーニュの別荘で、昔話をする2人。飛び出す色んな話に、時に大笑い! 昔だからこそあり得たというような、大叔母の話などビックリしつつ噴き出してしまいます。

──それでもシャルロットさんの中には、もっとお母さんに近づきたい、母の愛を確認したいという欲望があり続けたのですね。そんな心情が映画の中でも描かれています。

「そうですね。特にケイトの死という事態(写真家として活躍していた姉。2013年に逝去)に遭遇した時、私も相当なショックを受け、パリで暮らし続けることがどうしても無理になってしまいました。そこでイヴァンと子供と、私はニューヨークに移り住みました。とにかく何かを変えたくて……。でも、ほとんど母を捨てたも同然だという気持ちが、私の中に湧き起こりました。当時、母の健康状態があまり良くなかったのに、そんな母を置いて遠くに行ってしまうなんて、私はどんなに自分勝手なんだ、と。大きな罪悪感を抱えるようになり、その罪悪感の反動で、母に対する恋しさや欠乏感、寂しさがどんどん膨らんでいったのです」

ドキュメンタリーとしての見どころ

──本作が面白い理由の一つに、“え、そんなこと教えてくれちゃうの!?”みたいな告白が色々あります。例えばジェーンさんが「若い頃はずっと口パクだったから、舞台で歌うのが怖かった」とか、「体の上にトランクを載せなければ寝られなかった」等々、とてもユニークで面白いですよね。シャルロットさん自身、カメラを前にこんな発言まで引き出せたと満足したり、ドキュメンタリー映画の成功を確信した瞬間があったのではないですか?

「最初に撮った日本のパートで、私自身の不器用さゆえに母を不安にさせ、もう撮影は嫌だと言わせてしまっのは、つまりは非常に失敗だったわけですよね。でも、そんな風に失敗から始まったスタートが、観ていて面白いし、実は私はそこが好きで、今となっては良かったと思っているんです(笑)」

「また、チームをブルターニュに連れて行った後に、編集スタッフから“ドキュメンタリーとしては全然素材が足りない。チームを待たずに自分でカメラを持ってどんどん撮れ!”と言われました。それでチームを連れず、代わりに私の下の娘、当時8歳だったジョーを連れて、自分でカメラを用意してブルターニュの別荘に行きました。それがとても良かったと思います。母と1対1で向き合ったら、またも気後れしてカメラを回すことが出来なかったかもしれないけれど、ジョーが居てくれたお陰で和やかな雰囲気になり、生き生きとした雰囲気を撮ることが出来ました。女性3人で別荘に行って、とても楽しい時間を過ごせたんです」

ジェーンさんの後ろに映っているのが、シャルロットの娘で当時8歳だったというジョー・アタルさん。中盤以降、いくつものシーンで登場しますが、おしゃまさんで早くもオシャレです。

「もちろん私の撮影は上手くはなく、フレームがズレているような映像ではあるけれど、朝起きたばかりで髪がボサボサの母の姿、台所に立つ母などを撮ることができました。それを観た編集スタッフが、“これならイケる、これで大丈夫だ!”と言ってくれました。下手だけど家族の親密な光景と、チームが撮ってくれた抜群の映像とがミックスされることで、この作品のテクスチャーが決定づけられたと思います。それが本作の個性になったと私も自負しています」

客人たちをもてなすため、料理をするジェーン・バーキンさん。髪をまとめて魚をさばく貴重な1枚。

──こうして映画を完成させることによって、なるほど、映画ってこういうことだったのか、と新たに発見されたことはありましたか。

「やはり作品において、“編集”ってスゴイんだなと実感しました。私自身、編集作業で改めて母を観てすごく感動しました。脚本もないまま始めてしまったけれど、自分が語りたいことをどうやって表すのか、どう思いを伝えるのかなど、最後に考えながら進めた編集は非常にエキサイティングでした」

──今後、この経験が俳優として、監督として活かせそうですね!

「本作を撮ったからといって監督として自分がイケるという確信や自信は持てませんが、出来るなら何かまた作ってみたいとは思います。そんな幸運が訪れたら、ですが……。その時は多分また本作と同じくらいパーソナルな物語、パーソナルな作品でないと私は作れないと思いますし、もちろんそうすると思います。本作と同じぐらい、生き生きとエモーショナルになれるテーマを、これからゆっくり探していければいいな、と思っています」

シャルロット自身がカメラを握り、母の姿を追いかけます。

ジェーン・バーキンさん亡き今となっては、さらに大きな感慨がひしひし心に響いてくる母と娘のドキュメンタリー。母として、娘として、一人の女性として、仕事人として、輝きながら時に深く苦しんだり悩んだりしながら、前を向いてきて来た2人の姿、3世代にわたって母娘が向き合う姿に、胸を打たれずにいられません。

また本作のみならず色んなフランス映画を観てもよく感じることでもありますが、親子でこんなに率直に恋愛について、元恋人や夫やパートナーについて語り合えるなんて、すごくいいな、大人の文化だな、と憧れずにいられません。個人として尊重し合っているって素敵だなと、今回もひしひしと感じさせられました。

ジェーンさんにとっては元パートナーであり、シャルロットさんにとっては最愛の父であるセルジュ・ゲンズブールさんについての話なども飛び出すので、見逃せない会話や場面の連続です。

是非、才能にあふれる2人、“ジェーン&シャルロット・フォーエバー”という感じの、母と娘の会話や空気を堪能してください!

映画『ジェーンとシャルロット』

2021年/フランス/92分/配給:リアリーライクフィルムズ
監督・脚本:シャルロット・ゲンズブール
出演:ジェーン・バーキン、シャルロット・ゲンズブール、ジョー・アタル

2023年8月4日(金)よりヒューマントラストシネマ有楽町、渋谷シネクイントほか全国順次ロードショー

『ジェーンとシャルロット』公式サイト

折田千鶴子 Chizuko Orita

映画ライター/映画評論家

LEE本誌でCULTURE NAVIの映画コーナー、人物インタビューを担当。Webでは「カルチャーナビアネックス」としてディープな映画人へのインタビューや対談、おススメ偏愛映画を発信中。他に雑誌、週刊誌、新聞、映画パンフレット、映画サイトなどで、作品レビューやインタビュー記事も執筆。夫、能天気な双子の息子たち(’08年生まれ)、2匹の黒猫(兄妹)と暮らす。

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