クラシック界の頂点へと手が届く瞬間、才能ある女性指揮者が犯した過ちとは。
オスカー女優、ケイト・ブランシェットが演じるのは、 ガラスの天井を打ち破ってきた女性指揮者、リディア・ター。
最近、「Collectif 50/50」という言葉を目にする機会が多くなってきました。
企業や組織の男女比の構成を50:50となるように目指す施策で、例えばイギリスの公共放送BBCでは2019年5月に「50:50プロジェクト」の成果を発表し、テレビやラジオ番組に出演する女性の比率が1年間で大幅に増加したことを公表しています。
映画界では国際映画祭がこの取り組みを進めていて、東京国際映画祭も2021年に「Collectif 50/50」に署名しています。ただ、2021年1月に発表されたアメリカ映画興収ベスト 100 における映画監督の男女比はおよそ8対2で、まだまだ女性進出が厳しい業種のひとつとなっています。
さて、クラシック音楽は教会音楽として発展してきた歴史があり、長い間、女性には扉が閉ざされた世界でした。最近は女性団員の方が多いオーケストラもありますが、指揮者に至っては現在、最前線で活躍している女性指揮者はまだ30人前後と言われています。
2018年のマリア・ペーテレス監督の『レディ・マエストロ』は1930年にベルリン・フィルハーモニー管弦楽団の指揮者としてデビューし、女性指揮者のパイオニアであるアントニア・ブリコの人生を描いたものですが、全編、女性指揮者をはなから否定する人の多いこと。
これを踏まえて、トッド・フィールド監督の16年ぶりの新作『TAR/ター』を見ると、ケイト・ブランシェット演じるリディア・ターは世界最高峰のオーケストラの一つであるドイツのベルリン・フィルで女性初の首席指揮者に任命され、世界の音楽界を牽引する重要人物として描かれていて、万感胸に迫る設定となっています。
しかしながら、彼女が自身のキャリアの最高潮に達しようとするとき、築き上げてきた足元がぐらぐらと揺れ始めていきます。権威を持った女性の転落劇をなぜ、創作しようとしたのか。フィールド監督に聞きました。
©2023 Getty Images
トッド・フィールド TOD FIELD
1964年、アメリカ、カリフォルニア州生まれ。俳優としてキャリアをスタートし、スタンリー・キューブリック監督の『アイズ ワイド シャット』(99)などに出演。2001年、長編映画監督デビュー作『イン・ザ・ベッドルーム』(01)が世界的に高く評価され、ニューヨーク・タイムズで年間最優秀作品に選ばれる。さらに、アカデミー賞®では作品賞と自身の脚色賞を含む5部門に、ゴールデン・グローブ賞では作品賞を含む3部門にノミネートされ、シシー・スペイセクが主演女優賞を受賞する。監督2作目となる『リトル・チルドレン』(06)は、アカデミー賞®で自身の脚色賞を含む3部門に、ゴールデン・グローブ賞でも作品賞と脚本賞を含む3部門にノミネートされる。最新作『TAR/ター』はアカデミー賞(R)作品賞ほか6部門にノミネートされた。
私たちの迎える時代はみな、天使であることを期待されているが、人はいつも天使でいられるわけではない。
(c)Jon Zast
──芸術至高主義を貫くには難しい時代に、究極の芸術表現を追求する女性指揮者という設定が非常に面白いと思いました。人の感性に切り込む行為は、人の感受性を傷つける行為と紙一重だと思いますが、トッド・フィールド監督は人を傷つけずにすむ表現方法はあるのかという問いかけをしているようにも感じました。芸術家とハラスメントの関係性についてどのような考えを持つか、教えてください。
「この作品は芸術家に対する大衆の姿勢に疑問を呈しているわけなんですが、特に音楽やアートの表現者に対して、例えば、誰かのインタビューを見て、『馬鹿なこと言ってるな』とか、『エゴが強い』とこき下ろして、簡単に断じてしまう時代であると思うんです。ある表現者についてしっかり時間を取って考えるということがなくなってきていると思います。
私たちが迎えている今の時代というのは、みんなが天使のようでなければいけないと期待されていると思うんですけれども、私たち人間は、いつも天使であるわけではないですよね」
大きな力を持った人が、自分に似た人を潰してしまう。成功者は常に肩越しに、自分のポジションに来る者を気にしている。
物語はリディアが念願のマーラーの交響曲第5番のライブ録音に挑むまでの リハーサル風景を軸に進んでいく。
──この作品はフィールド監督が脚本も手掛けられていますが、リディア・ターの造形が非常に丁寧で感嘆しました。彼女は念願であるマーラーの交響曲第5番の演奏録音を間近に控えていますが、練習、各楽団員に対して、英語だけでなく、ドイツ語、フランス語とそれぞれの母国語で語りかける。
その姿勢を見ても、血の滲むような努力の末に現在の地位を獲得したことがよくわかります。それでも転落してしまうひとつの要素として、成功した女性が将来性のある次世代の女性の芽を摘んでしまうという関係性を選んだところが、女性の観客として胸を突かれました。
「ええ、そうなんです。まさにおっしゃる通りで、大きな力を持ってしまった人が、自分に似た人を潰してしまう。この人は私になりそうだと感じた人を潰してしまうことは、よくあることです。成功者は自分の肩越しに、次に誰が自分のポジションに来るんだろうと、非常に気にしているわけなんですね。男性は常にそういうことをしていますし、女性もそういうことをすると思います。
不幸なことに、人間というのは、そういうダイナミズムを持っていると私は考えます。権力というものは人を堕落させるものだと思います。ご指摘の通り、リディア・ターは凄まじい努力をして、劇中のベルリン・フィルのトップに就いたわけです。それは、女性のエンパワーメントであります。
同時に、私はこれだけ努力を積み重ねてきたのだから、あなたもやりなさいという態度を取る、それがこの主人公なんです。世の中に女性指揮者を受け入れてこなかったクラシック音楽会の家長的な権力に対して 批判しつつ、自分ではその権力が欲しいという側面が彼女の中にはあるのです」
リディアがロシア出身のオルガの才能を推すことで、楽団に波紋が起きる。 オルガ役のソフィー・カウアーはオーケストラ奏者として13歳から活躍するチェリスト。
ケイト・ブランシェットは、この惑星で最も優れた役者であるが、彼女自身にも駆け出しの時期がありました。
演奏会と作曲のプレッシャーで、リディアは袋小路へと足を踏み入れていく。
──リディア・ターを演じたケイト・ブランシェットさんは、今話されたテーマについては、どのような意見を持っていらっしゃったんでしょうか?
「ケイト・ブランシェットという人は、この惑星で最も優れた役者の1人だと思います。ですけれども、彼女にも若い時があったわけで、若いアーティストとして周りの人の好意に助けられて、今の場所まで歩いてきた。アーティストとして駆け出しの頃というのは、すごく優しく接してくれる人もいれば、先ほど言ったように、上の立場の人が、自分のポジションを取られたくないと思って潰そうとする人もいる。
その経験を、ケイト自身もしてきたのです。それは芸術の世界に限らず、どんな世界でもあることでしょう。『TAR/ター』では、ノエミ・エルランが演じたフランチェスカ・レンティーニという、リディア・ターのアシスタントの立場にある人物が出てきますが、ケイトにもフランチェスカのような時期があったということです」
リディアの公私共のパートナー、シャロン(ニーナ・ホス)は
コンサートマスターで、第1ヴァイオリンの首席奏者。
──リディアとフランチェスカの関係性の変化は、この映画の最大の見どころのひとつですね。
「ええ、なので、ケイト自身、助けてくれる人もいれば、自分を蹴散らそうとする人もいるということは、ご自身の経験としてよく理解していました」
カラヤン、バーンスタイン、ゲルギエフなど多くの指揮者を調べ上げて、リディア・ターのスタイルが出来上がった。
ケイト・ブランシェットがリハーサル風景で実際に指揮をした演奏の音源はサントラ盤に収録されており、音の演出も楽しむことが出来る。 (C)2022 FOCUS FEATURES LLC.
──指揮者というのは肉体的に大きなパフォーマンスをしなくてはいけないので、女性には向かなかったと言われている時期もあったそうですが、今回、ケイトさんが具体的に参考にした指揮者のパフォーマンスとして、どのような人たちの名前が上がったんでしょうか。
「たくさんいます。もちろん、1955年より1989年までベルリン・フィルハーモニー管弦楽団の終身指揮者・芸術監督を務めたヘルベルト・フォン・カラヤン。カラヤンと同時期に活躍したレナード・バーンスタイン。ナタリー・シュトゥッツマン、2015年から2022年までミュンヘン・フィルハーモニー管弦楽団の首席指揮者を務めたヴァレリー・アビサロヴィチ・ゲルギエフなど、もう彼女に聞かないとわからないぐらい多くの指揮者を見ていると思うんですが、それぞれの指揮者の特徴をとらえて、そこをベースにしてリディア・ターという指揮者のスタイルを作り上げていったと思います。
スタイルで言うと、先ほどのナタリー・シュトゥッツマンさんにケイトは一年以上、指揮を習い、撮影現場に来ていただき、二人でやり取りをしていました」
『TAR』は知られざる指揮者のリハーサル風景を見せる映画として作った。
ケイトの指揮の指導をしたのは、 コントラルト歌手とオーケストラ指揮者の2つのキャリアで活躍しているナタリー・シュトゥッツマン。
──ナタリー・シュトゥッツマンさんは二人目の女性指揮者として2023年のバイロイト音楽祭で「タンホイザー」を指揮することが発表されていますね。また、ケイト・ブランシェットさんの指揮に関しては、TARとして指揮したマーラーの交響曲第5番の練習演奏の音源がそのままUniversal Musicから出たサントラ盤「TAR」に収録されていて、映画と音楽のコラボが非常にユニークな形で実現していて興奮します。
「この『TAR/ター』という作品は、実際の演奏会のパフォーマンスを描く映画ではなくて、リハーサルを見せる映画として作ったんですね。つまり、指揮者がどうやってリハーサルをしているのかを見ることを可能とした映画であるのです。そもそも、世の中に出ている指揮者の仕事というのは完成形であって、その過程を見ることはなかなかなかできない。本番までに交響楽団の演奏がどうやって作られていくのか、段階的に見ることが出来るという点で、『TAR』はとても面白い構成だと思います。
例えば、バースタインはどういうリハーサルをしていたのか、グスターボ・ドゥダメルが若い学生にどんなリハーサルをしているのか、そういうことを知るのはとても面白いと思うんです。リハーサル風景を重ねながら、指揮者として、その人が楽団にどういう姿勢を取っているのか、どんなスタイルでタクトを振るのか。それだけでなく、本当に著名なマエストロとなると、ステージに入ってきた瞬間、部屋の温度が変わると言われているような人たちを見て、ケイトはリディア・ターのスタイルを作り上げていったと思います」
リディアが家長的な振る舞いをしてしまうのは、若い頃に師事したのが権力を持った男性たちだったから。
──私はこの作品を見ながら非常に面白い違和感を抱えていたのですが、それはこれまでいろんな作品で見慣れてきたケイト・ブランシェットが、これまで見たこともない顔をずっとしていることでした。
なぜ、そう感じるのだろうと考えた結果、私たちが無意識に浮かべる媚びとか、男性世界で受け入れやすい表情を一切、取っ払うとああいうことになるのではないかと。意識的に男性社会から舐められるような女性性を排除したら、ああいう顔になるのかなと感じました。
そう考えると、リディア・ターは自身の見せ方において極めて高度なコントロールをしていて、その抑制はうまくいっているのだけれど、ここにきて、亀裂を来たす時期に来ているという解釈もできるのかなと。彼女がランニング中、林の向こうから姿の見えない女性の声が聞こえる場面が何度か象徴的に出てきますが、私自身は、リディアが押し殺している女性性の象徴かなと感じました。監督自身は、リディアの自己表現のアンバランスさはどうコンセプトされたのでしょうか?
「今の質問を正しく理解しているかどうか、はっきりわからないところもありますが、私の理解で言うと、リディアが男性的な家長的な社会の中で、非常に男性的な振る舞いを投影しているとしたら、それはリディアが若い時に師事したのが、権力を持った人たちが男性たちだったから。彼女のメンターが権威ある男性であったがために、そういう人たちの行いをそのまま身に着けていったということなんではないかなと思います」
トッド・フィールド監督は自身の母校であるハーバード大学で、1970年代にレナード・バーンスタインが行った講義の記録を目にしたことから、指揮者と音楽の関係性に興味を持ったという。 (C)2022 FOCUS FEATURES LLC.
──なるほど。私たちは若いときに師事したメンターに大きな影響を受けていると。
「男性性、女性性でこの作品の題材を語るにあたっては、そもそも男性性をどう定義するのか、女性性とはなにであるかと定義することによって語られるべきで、とてもとらえにくいコンセプトであるかと思いますし、ケイトともこのトピックについて話をしたわけではないんです。男性性、女性性という見地ではなく、私たちが話をしたのは、リディアが理想としている指揮者像とは誰なのか、どういう人なのかということでした。リディアがハーバード大学で、或いはカーティス音楽院で出会ってきたメンターたちはどういう人なのか、そこについてはケイトと多く話しました。
アーティストというのは、誰かの下で学んだ上で、誰かになりたいと思ったり、尊敬して、近づきたいと努力して研鑽していくわけですが、逆に、絶対そうなりたくないと思っている者にも近づいてしまうことがあります。例えば、私たちは絶対に親のようにはなりたくないと若いときは反発しますが、結局、親のようになってしまうこともある。そういう意味で、メンターはとても大きな存在だと思います」
©giulia parmigiani
映画『TAR/ター』
アカデミー賞主要6部門ノミネート。トッド・フィールド監督がケイト・ブランシェットのために創作したオリジナル脚本の映画化。世界最高峰のオーケストラの一つであるベルリン・フィルの首席指揮者に女性初で就任したリディア・ター。作曲家としても成功をおさめ、自身の自伝本の刊行と、念願のマーラーの交響曲第5番 のコンサート収録を控えている中、少しづつ、彼女の日常が軋んでいく。そしてターが指導した若手指揮者の死をきっかけに、完璧だった日常の亀裂が露になっていく。
ケイト・ブランシェットが表現者としての格闘の姿を、迫力を持って演じていて、目が離せない。
監督・脚本・製作:トッド・フィールド『イン・ザ・ベッドルーム』『リトル・チルドレン』
出演:ケイト・ブランシェット『ブルージャスミン』、ニーナ・ホス『あの日のように抱きしめて』、マーク・ストロング『キングスマン』、ジュリアン・グローヴァ―『インディー・ジョーンズ/最後の聖戦』
音楽:ヒドゥル・グドナドッティル 『ジョーカー』(アカデミー賞作曲賞受賞)
原題:TÀR/アメリカ/2022年 © 2022 FOCUS FEATURES LLC.
配給:ギャガ
★5月12日(金)よりTOHOシネマズ日比谷ほか、全国にてロードショー公開。
VIDEO
映画『TAR/ター』公式サイト