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もし自分が親の立場だったら……『「生きる」大川小学校 津波裁判を闘った人たち』寺田和弘監督インタビュー【東日本大震災から12年】

  • 金原由佳

2023.02.23

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僕の役割は、周囲の小さな声を世間へと伝えるスピーカー。石巻市大川小学校の保護者の方々の声にならない声を伝える。

間もなく12年目の東日本大震災の日がやってきます。

小学3年生で被災した岩手出身の佐々木朗希選手が今春、WBCの日本代表に選出されている姿を見て、月日の流れを感じずにはいられません。しかしながら、あの時から、時が止まったままという方も少なくないかと思います。

寺田和弘監督によるドキュメンタリー映画『「生きる」大川小学校 津波裁判を闘った人たち』は、2011年3月11日、津波の被害にあった被災地において、児童74人(うち4人は行方不明)、教職員10名という、他にはない大きな犠牲を出した理由を、宮城県石巻市、大川小学校の遺族たちが行政に問い続け、真相を追求した記録となります。

小学校の裏山に避難できる条件があったにもかかわらず、地震発生から51分、生徒たちは校庭に留め置かれ、教員たちが避難先を決めかね、結果的に避難が遅れてしまったことは、日本中に大きな衝撃を与えることとなりました。

「なぜ大川小学校だけ、多数の死者を出したのか」
「あの日、何が起きたのか」

保護者たちの問いは、生き残った教諭、当日学校に不在だった校長、所轄の教育委員会や石巻市の市長に投げかけられますが、1回目の説明会からずっと、要領を得ない話しか戻ってこない。事実を解明するため、遺族のうち19家族23人が、2014年3月10日、石巻市と宮城県を被告とし、仙台地裁に損害賠償請求訴訟を提起。そこから最高裁に至るまでの月日の中で、行政の安全対策に穴があったことをひとつひとつ、親たちが調査し、実証していく姿が収められています。

もし、自分がこの親御さんの立場だったら……。当事者の目線で、遺族たちの心境の変遷を見守り続けた寺田監督にお話を伺いました。

 

監督・寺田和弘(Kazuhiro Terada)
1971年兵庫県神戸市出身。1990年神戸高塚高校卒業。1999年から2010年までテレビ朝日『サンデープロジェクト』特集班ディレクター。シリーズ企画『言論は大丈夫か』などを担当。

2011年から所属する番組制作会社パオネットワークで、主に社会問題を中心に番組制作を 行う。近年はアイヌの“先住権”問題の取材に取り組んでいる。

受賞作に『シリーズ言論は大丈夫か~ビラ配り逮捕と公安~』(テレビ朝日・ABC サンデー プロジェクト、2006年JCJ賞)、『DNA鑑定の闇~捜査機関“独占”の危険性』(テレビ朝 日、2015年テレメンタリー年間最優秀賞・ギャラクシー賞奨励賞)がある。本作『「生きる」 大川小学校 津波裁判を闘った人たち』が、長編ドキュメンタリー映画初監督作品となる。https://creators.yahoo.co.jp/teradakazuhiro

卒業して4か月後に女子生徒が学校で事故死した。誰かが声を上げていたら、命は失われずにすんだかもしれない。

──『「生きる」大川小学校 津波裁判を闘った人たち』(以下、『生きる』)の話の前に、ひとつ伺いたいことがあります。寺田監督のプロフィールにある神戸高塚高校は、私の出身と同じ神戸にあるのですが、1990年、遅刻を取り締まるため、登校門限時刻に校門を閉鎖しようとしたところ、当時15歳の女子生徒が門扉に頭を挟まれて、亡くなられた学校ですよね。寺田監督が一貫して、弱者の声を拾う報道を手掛けていらっしゃるのは、このことが関係しているでしょうか?

「この『生きる』に関しては、制作中にそのことを意識したかというと、意識はしていないですね。ただ、これまであまり公にはしてこなかったけれど、自分の胸にずっと引っかかっている事件であったことは事実です。僕が卒業した年の4か月後、彼女は遅刻しないように駆け込んだ校門に挟まれて亡くなったんですけど、当時、僕たちの高校は新設校で、理不尽な指導が多かった。みんな、影では『なんだよ、こんな規則』と文句を言ったりはしていたけれど、生徒が先生たちに、こんなことまでする必要がありますかと、誰も面と向かって言わなかった。もし、僕が、もしくは誰か一人が、在学中に、『校門を強制的に閉める指導はおかしい』と声を上げていたら、彼女の命は失われずにすんだかもしれません」

──教員がルーティンでやっている習慣が、学校で生徒が亡くなってしまう原因になってしまう。声を上げる大切さは、『生きる』でもずっと描かれていることですね。次女を亡くした紫桃隆洋さん・さよみさん夫妻、娘を亡くした只野英昭さんなど、みなさんのご自宅でどんなお子さんだったか、話を聞いてらっしゃいますが、どのような経緯で映画を撮ることになったのですか?

「僕はですね、大川小学校の事案をそれまで取材してきたわけではないんです。神戸出身ですので、阪神・淡路大震災を経て、日本で初めて環境防災科を設置した兵庫県立舞子高校が大川小学校の視察に来たことがあり、その取材程度だったんですね。ただ、遺族の方たちが石巻市と宮城県を相手に裁判を起こした際、原告団の弁護を引き受けた吉岡和弘弁護士とは別の事件と知り合っていて、2020年夏に、電話がかかってきました。

映画の中でも触れていますが、裁判を起こしたことで、金目当てではないのかと理不尽な批判が一部から起き、遺族の方たちに脅迫事件が起きた時期になります。大川小学校の裁判は、勝つことが目的じゃなくて、 裁判に勝ってからが、何が起きたかの検証に向けてのスタートを切るということが目的で始めたことなんです。それが世の中にうまく伝わらず、脅迫事件以降、ご遺族の皆さんがちょっと下を向いてるような気がすると吉岡弁護士が言うんですね。このまま何もアクションを起こさなければ、ただ勝って、終わってしまう気がすると。

自分は弁護士なので、本を書いたり、講演で話す活動はできるかもしれないけれど、遺族の方にはそういう機会がない。だから、映像で遺族の方たちの思いや、裁判の目的や意義を伝えて、残すことができないんだろうか、という相談でした」

© 飯 考行

親が闘ったのは亡くなった子どものため。言い換えれば子どもたちが闘った数年ではないか。

──なるほど、この作品は時系列に沿って構成されていますが、前半は寺田監督が撮った映像ではなく、ご家族が記録された映像を託され、編集されたものなんですね。ただ、そこも信頼感がないと映像は貸してもらえないですよね。

「当初、遺族の方は映画製作に関しては、あまり賛同する感じではなかったんですね。お話を聞いていく中でも、吉岡弁護士から、私自身が、遺族の方たちの信頼を得ないと始まらないんじゃないかと言われたこともあります。

ただ、結果から言うと、大川小学校の遺族の方たちの原告団は、吉岡弁護士と齋藤雅弘弁護士のたったふたりだけで引き受けられているのですが、このお二人と遺族の方の信頼関係と言いますか、絆に関してはすごく強固なものがあるんですよ。だから、僕が一から関係性を作る必要はなく、その輪の中にすっと入れていただく形でした。

実際、大川小学校の保護者の方たちには、震災直後から信頼関係を築いて、ずっとお付き合いをされている新聞記者の方や、ジャーナリストがいるんですけど、話を聞くと、震災直後、お子さんを探しているところから一緒に長靴を履いて、泥まみれの現場を共に歩いたという。話す方も、取材する方も、お互い言葉にならないことが多々あったと聞いていますが、僕はその方たちと違って、共有する時間や記憶がないので、違う形の参加となりました」

大川小学校

© 只野 英昭

──そのちょっと引いた視線で、状況を分析して、冷静に整理された作品だと思いました。冒頭に、お子さんの遺体を見つけたときの文章が出てきますが、あまりにも痛ましい記述なので、一回目の試写の時、テロップだけなのに、その状況を映像として見たと記憶していて、二度目に見た時、音声もないことに驚きました。これは観客の感受性のキャパシティを考え、あえて、情報を削ぐ形をとられたと受け取っていいでしょうか?

「あそこは朗読しようかどうか、最後までちょっと悩んだんですけど、最終的にはテロップだけにしました。今回、音声ガイド付きのバージョンを制作しましたが、そちらでは朗読しているんです。朗読にしてしまうと、感情が付加されて、見ている方の感情に訴えすぎるかなと。

ただ、完成した作品を見た時、ある原告遺族の方が、『この映画は親たちが主人公になっていますね』と。『でも、主人公はあくまでも子どもたちであるべきだ。その子どもっていうのはもちろん生前の姿もあるし、津波に呑まれていって、土に埋もれている姿でもある』と。私たちはそういう子どもの姿を主役として知ってもらいたいんだ』という話もありました」

──それは途轍もなく覚悟のある言葉ですね……。こちらはつらくてもここまでさらけ出して見せるから、皆さんも知ってほしいっていう。でも、これが現実ですという。

「子どもたちを主人公にという想いは確かにそうですが、やはり僕は今回は親たちの闘いを知ってもらいたい。なぜかというと、親たちが闘ったのは、自分の子どものために闘ったわけですよね。言い換えてみれば、それは子どもたちが闘ったことでもあるんじゃないかと」

遺族が撮り貯めた行政との200時間に及ぶ話し合い、すれ違うやり取りを観客に追体験してもらうことに意味がある。

──映画の前半、教職員の中、唯一助かった先生と、震災当日の午後、休みを取っていた校長先生を軸に第1回目の説明会が行われますが、震災から避難まで51分かかってしまったことの経緯について、誰がストップをかけたのか、はっきりとした答えが返ってきません。以後、ずっとその連続なのですが、遺族の方たちから預かった200時間ものやり取りを通して、感じられたことは?

「この映画の中でのやり取りも大概ですが、でも、あれでも一般の観客が耐えられる限度のやり取りをなんとか見つけて、会話が成立しているところを選んで構成しているんです。実際のやり取りは、もっとひどい。

遺族の方が説明会に参加する度に心が折れたと言っていますけど、 映像を全部見ている僕も本当に苦しくなるんですよ。なぜ、質問しているのに、答えないのか。質問とは違うことをわざわざ答えるのか。そういうやり取りがずっと続いていくのを何度も見て、当事者でない僕ですら苦しかったし、行政と保護者の間の溝がどんどん広がっていくのも感じました。

ただ、この映像を見続ける中で、これは観客の人に追体験してもらえるのであれば、この映画には意味があるなと思いました」

──行政側が保護者たちの問いかけに応えない、なおかつ途中で、生存した生徒たちから聞いた聞き取り調査の書類を破棄するなどの行動にでるのは、やはり、誰に責任があるのか、曖昧にしておきたいということなんでしょうか?

寺田監督は、教育委員会の当時の学校教育課長が、部下に「喋るな」的な目配せしている映像を見逃さず、映画の中で使っていますが、あそこをはじめ、教育の場でのヒエラルキーがあちこちで露出してくる。そもそも、避難場所がなかなか決まらなかったのも、先生たちの上下関係があったんじゃないかという意見もあります。

「大川小学校がなぜ、ああいう体制だったのかも、映像を通して見えてくる気がしますよね。本当になんでしょうかね。色々な事件が起きても、真相追及を自ら明らかにしていかないから、繰り返されることなのかなと思います。表面的な責任や、表面的な改善、表面的な対策に終始してるからじゃないですかね。

映画の中でも取り上げていますが、保護者たちの調査で、実は大川小学校は震災の年からさかのぼって3年間、避難訓練を一度もしていなかったことが後でわかります。そして、そのことを把握しておきながら、教育委員会からの警告も指摘もなく、見過ごされてしまった。これは他の小学校と比べてもあり得ないことです」



今作ではあえて、個人の物語にフォーカスすることはやめた。

──石巻市、宮城県での調査では埒が明かないので、保護者の要請で外部の調査委員会が文部科学省の指導で設立されますが、これも東北エリアの有識者が集まったもので、教育評論家 の尾木ママこと尾木直樹さんが、東北とは全く関係のない人たちでないと意味がないと指摘されていますね。

「第三者委員会は、原則公開という形で、マスメディアも入って、『自分たちは公開しています』という形で開催されました。けれど、おっしゃるように、開けばいいのかというと、そうではないわけですよね。構造自体を開かないといけないわけだけど、それをしない。だから、公開する意味というものを、行政はわかってないんじゃないかなと」

──そういう行政と向き合う保護者の方たちを、カメラで追う中で気を付けられたことは?

「おひとり、おひとりに深い悲しみと、 それぞれの物語があるんですよね。で本来であれば、そうしたひとりひとりに寄り添い、深い悲しみや怒りを観客の皆さんに聞いてもらう必要性はあるのかもしれないんですけれど、今回はそういうアプローチはせず、正直に言うと、表層的な部分に留めました。

例えば、映画に出てくる、娘を亡くした紫桃さゆみさんは、息子さんに車の中で『もう死のう』と2度言ったことがあるそうです。そのとき、息子さんに『俺にも人生があるんだよ』と言われたという、言葉にならない深い傷を負ったやり取りをしているんですよね。その話をされている姿を映画の中でお伝えすべきでしょうけれど、色々考えた中、今回は、個人の方の物語にフォーカスすることはやめようと。そこは、いろんなジャーナリストの方がされているので」

──印象的な場面として、校庭から裏山に逃げるのに何分かかるかを、保護者の方たちが実際に走って、タイムを記録して、検証されているとき、ガンの手術をされた直後の佐藤美広さんが走るんですけど、ご本人も皆さんもやりながら笑みがこぼれるんですよね。なんで、こんなことをやっているんだっけ、みたいな感じで。情熱をもってやっていて、悲しみを抱えているけど、共闘している熱さが伝わってくる光景でした。

「そうなんです。普通、ああいう時ってああいう笑い声はおきないですよね。でも、証明してやったみたいな。形になることがちょっと楽しくて、笑みがこぼれることがある。人間としての深いお付き合いをされているんだなと強く思いますよね」

──遺族の方が何度もめげずに対話を求め、丹念にいろんなことを調べていったので、行政側の不備がひとつずつ明らかになっていきますが、保護者の方が声を挙げなかったら、それこそ、市長が言ったように、「災害なので宿命です」と運命論で片付けられていたかもしれない。これはよく考えると、恐ろしいことですね。

「紫桃さんをはじめ、情報開示請求を、遺族の方々はずっとやり続けたんですよね。ご自宅に行くと、その書類が山のようになっていました。でも、見せていただくと、中はほとんど真っ黒です」

いつの時点で避難すべきだったか、遺族自らが命が助かった時間を検証していく過酷さ。

──黒塗りですか?

「そうですね。でも、情報開示をずっと重ねてきたから、裁判が始まる前に、吉岡弁護士は、もう、証拠は集まっていると確信されていたと思います。

実は今日、このインタビューの依頼を受けたとき、僕よりも、吉岡弁護士の方がふさわしいんじゃないかなと思ったんですけど、吉岡弁護士との出会いというのが2010年11月、秋田市の弁護士、津谷裕貴さんが、離婚を巡る裁判で、妻側の代理人だった津谷さんを逆恨みした元夫に刺殺された事件なんです。通報でやってきた警察官の目の前で起きた事件で、警察の初動捜査が問題となり、国選訴訟となっていて、吉岡弁護士はこの津谷弁護士殺人事件と、この大川小学校の訴訟と同時期に携わっていたんですね。津谷弁護士殺人事件の方は、大弁護団で、全国から大勢の弁護士が参加していたんですが、大川小学校の裁判は斉藤弁護士と二人だけの構成でした。

で、なぜ、吉岡さんは二人だけで十分やれると思ったかというと、やっぱりご遺族の方たちと会って、お人柄を見て、できると思ったんじゃないかなと。で、弁護士が調べるよりも、地域の方たちが調べた方が分かることが圧倒的に多い。でも、実際、裁判を起こすのって非常に過酷なんです。日本の裁判というのは、一般市民が思っている証拠が証拠にならず、裁判で勝訴するために認められるための証拠が必要なんですよね。

自分では、これが決定的な証拠だと思っても、裁判では証拠として扱ってももらえないというケースはいっぱいある中で、この大川小学校の裁判では、遺族が、いつの時点で避難すべきだったか、その時間を巡る証拠を集めざるを得ない。それを検証していくことは、その前に逃げていれば助かったという証でもありますから、すごく辛いことをあえて遺族の方たちに調べろというんですから、ある意味、吉岡弁護士というのは非情でもあるんですよね」

大川小学校で起きたことは特別な災害による被害じゃない。日本全国で起きている様々な事故事件と共通する。

──津谷弁護士事件でも、助けられたはずの命が、警察官の緩みで失われてしまった。そして、それを実証するのに、警察官からは全然、情報が出てこない。森友公文書改ざん事件で亡くなられた近畿財務局の赤木俊夫さんの訴訟でもそうですけど、知りたいことが隠蔽されてしまう。地方から中央まで、なんでこんな似通った形になるんでしょうか?

「岩波書店から出た『遠い声をさがして―学校事故をめぐる”同行者”たちの記録』(石井美保著)にある、京都の小学校で起きたプール事故の事案を人類学者の方が寄り添ってまとめられた本がありますが、あれを読むと、大川小学校と同じような問題が浮かび上がります。だから、この大川小学校の事件というのは、一見、74人の子供たちの命が失われた特別な災害と思われがちなんですが、本当に日本社会の全体で起きている様々な問題と共通する。

何度も言いますが、大川小学校の事件は、ずっと取材されているメディアの方が多いので、映像のプロ、記録のプロに任せてもよかった。でも、吉岡弁護士は、外部の方の力を借りず、ご遺族の皆さんで検証しなさいというスタンスを最初から最後まで崩さなかった。これは、吉岡弁護士、、齋藤弁護士だけでなく、遺族の方たちにも本当に覚悟がいる。信頼がお互い結べていないと、できないことなんですよね」

──私が映画を見終えて心揺さぶられたのは、震災から1か月後の最初の小学校の説明会の時には、親御さんたちから出てくるのは苦しみと怒りを帯びた叫びの声で、ときに感情がほとばしった瞬間も出てきましたが、裁判を経て、記者会見などでご自身たちの声を正確に伝えようとする中、自分たちの子供たちのためだけでなく、今後の子供たちの未来のために、プライベートな感情からパブリックな責務へと感情を変換されたことでした。

寺田監督が映画で強調されているのも、語り部となって、自らの体験を社会と共有されている姿ですよね。

「そこは、カメラを回しながらというよりも、ご遺族の方たちが撮ってきた映像記録を見ていく中で、感じました。だから、今回、僕は、時系列にすごくこだわったんです。ドキュメンタリーというのは、言葉が悪いですけど、時系列を入れ替えすることによって、感動や共感を得られるように編集することがかなりあるんですよね。

でも、今回はもう徹底的に時系列順で構成することにこだわっています。それはなぜかというと、今まさにおっしゃったように、彼らがどのように生きていたか、感情の変化が時系列を並べることで、よくわかるので。そこは観客の方も同じように感じていただけると思います」

裁判に参加しなかった人にも事情がある。同じ石巻市内でも、裁判の背景を未だ知らない人がいる。

──家族を失った苦しみや悲しみは時を重ねるしかない、時が薬とよく言いますが、まだ、カメラの前に出て来られない方もいらっしゃいましたか?

「先ほど吉岡弁護士は非業だと僕は言いましたけど、吉岡さんは、原告の保護者の方たちにとにかく、マスコミの取材に応じるようにと言われていました。マスコミは敵ではない、とにかく想いをまず知ってもらわないといけないから、きっちり対応するようにっていうことを徹底してお願いしたんですよね。前に出にくい方、出ない方もいらっしゃいますけれど、 基本的には皆さん、記者会見の場に、話す、話さないにかかわらず、出て来られています。

一方、原告団に参加されていないご家族もいます。裁判に参加しなかった方の中には、行政の話し合いの中で心が折れてしまって、裁判に立ち上がれなかった方が圧倒的に多いんですけど、それ以外に、自分の仕事が行政側であるために、参加できなかった方もいます」

──裁判の結果は、広く知られるように2016年の仙台地裁、2018年の仙台高裁、2019年の最高裁による上告棄却で、二審判決が確定という形になりました。このドキュメンタリーの意義はどのようなものだと思われますか?

「石巻市全体で言うと、多くの方々が身内を亡くされ、なぜ、大川小学校の命を落としたお子さんだけ、一部の人たちが裁判をしたのかという批判は一部で未だ、根強くあります。でも、それは、映画で見て頂くような事実を知らないからなんですよ。真実を知るために求め続けて、応えられず、やむを得ず裁判を起こしたというプロセスを知らないから、ネガティブな感情を持つ方がいるので、まずは遺族の方たちのプロセスを見てもらうと。

この映画を見て、果たしてまだ、非難することができるだろうか、そう私は思っています」

まだまだ聞かなくてはいけない声、遺さなくてはいけない声がある。

 

1 / 2

──寺田監督はテレビの報道などを通し、ずっとアイヌの先住権問題などを取り上げていますが、声がなかなか社会に届けにくい人たちを追い続ける原動力は何ですか?

「僕がやっていることは、吉岡弁護士がそうですけど、僕の周囲で小さな声を世間に伝えていこうと活動している人たちがいて、その声を届けているだけなんです。だから、僕はスピーカーだと思っているんです。僕自身は訴えたいことはないんだけど、頑張っている方々の声を届けるのが、僕の役割かなと思っています。

アイヌの先住権の問題はずっと追い続けていますが、最近、僕のいとこが台湾のタイアル族であることを知って、身近にそんな人がいることを知らなかったので、まだまだ聞かなくてはいけない声、残さなくてはいけない声があるなと思っています」

参考文献:「水底を掬う ― 大川小学校津波被災事件に学ぶ」(信山社)

「生きる」大川小学校 津波裁判を闘った人たち

2011年3月11日、東日本大震災にて、宮城県石巻市の大川小学校は津波にのまれ、全校児童の7割に相当する74人の児童と10人の教職員が亡くなった。ラジオや行政防災無線で津波情報は学校側に伝わり、スクールバスも待機していた。にもかかわらず、唯一多数の犠牲者を出した要因は何だったのか。

わが子を失った親たちの問いに、行政は一貫して、責任の所在を明らかにしない。真実を求め、石巻市と宮城県を被告にして国家賠償請求の裁判を提起した原告団の親たちの10年にわたる真相追及の挌闘と、心の変化を辿るドキュメタリー。
文部科学省選定作品、東京都推奨映画、映倫「次世代への映画推薦委員会」2月推薦作品

監督 :寺田和弘
プロデューサー :松本裕子
撮影 :藤田和也、山口正芳
音効 :宮本陽一
編集 :加藤裕也
MA :髙梨智史
協力 :大川小学校児童津波被災遺族原告団、吉岡和弘、齋藤雅弘
主題歌 :「駆けて来てよ」(歌:廣瀬奏)
バリアフリー版制作:NPO メディア・アクセス・サポートセンター
助成 :文化庁文化芸術振興費補助金(映画創造活動支援事業)
独立行政法人日本芸術文化振興会

製作 :(株)パオネットワーク
宣伝美術 :追川恵子
配給 :きろくびと

2022 年/日本/16:9/カラー/124分

©2022 PAO NETWORK INC.

★新宿K’s cinemaほか、全国順次公開中。

『「生きる」大川小学校 津波裁判を闘った人たち』公式サイト

 


撮影/高村瑞穂

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金原由佳 Yuka Kimbara

映画ジャーナリスト

兵庫県神戸市出身。関西学院大学卒業後、一般企業を経て映画業界に。約30年で1000人以上の映画監督や映画俳優のインタビューを実施。映画誌、劇場パンフレット、新聞などで映画評を執筆。著書に『ブロークン・ガール 美しくこわすガールたち』、共著に『伝説の映画美術監督たち×種田陽平』。映画祭の審査員、トークイベントなど講演・司会も多数。

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