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東日本大震災から10年。知ろう、伝えよう「私たちの現在地」

【東日本大震災から10年】県議目指し活動中。「黙っていたのは逃げ……自分で行動しようと決めました」/磯貝潤子さん

2021.03.05

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5年目インタビューに登場した被災ママが語る、あれからのこと 東日本大震災から10年。知ってほしい私たちの現在地

2016年4月号のインタビューから5年。東日本大震災関連の報道が減る中で、彼女たちが日々、どんな葛藤や奮闘を続けてきたのか。

新型コロナの流行で現地取材がままならない中、今回はオンラインでじっくりとお話を伺いました。ぜひ彼女たちの思いを共有してください。

磯貝潤子さん「あのときの怒り、そのもっと下にあった悲しみ、何もしていなかった自分に背を向けては生きられない。だから、自分で行動しようと決めました」

磯貝潤子さん

Profile

いそがい・じゅんこ●岩手県出身。46歳。アマチュアのスノーボーダーとして活躍後、事務職などを経て、現在、団体職員。地域や政治にかかわる活動を続けている。長女は美容師に、次女は専門学校生。

 

5年目インタビューより

磯貝潤子さん

撮影/高村瑞穂

郡山市で被災。放射能対策をしながら暮らしていましたが、1年後、県外への自主避難を決断し、娘2人を連れて新潟県の借り上げ住宅に引っ越します。夫は郡山市に残り、二重生活に。甲状腺の検査では娘にも自分にもたくさんのコロイド嚢胞が見つかりました。子どもたちの健康を守るため、放射能や、水や食べ物の安全性について必死に学ぶうちに、沖縄や安保などの社会問題にも目を向けるようになっていきます。

磯貝潤子さんの5年目インタビューはこちら >

突然の原発事故をきっかけに他の問題にも目が向き始めた

磯貝潤子さん

「映画を観ること、オシャレをすることが今一番の楽しみ。夫との夕飯の時間と、たまに鳴る娘たちとのLINEの時間を大切にしています」

「ママ、本当に戦争になっちゃうの?」……「この法律が成立したら、なるかもしれないね」と答えると娘さんは泣いたと言います。2015年、安保関連法案が国会に提出され、多くの反対の声が上がっていました。

「どうしたら泣く娘を慰められるんだろう。私たちは原発から離れた場所なら安全に暮らせると思って新潟に避難したけれど、もしも戦争になったら、今度はどこに避難すればいいんだろう。大丈夫だよと言える根拠がひとつも見当たらなくて、だったら止めなくちゃならないと思いました」

SNSを通じて「安保関連法に反対するママの会」が全国に広がっていき、磯貝さんもその活動に加わります。たくさんのママが集まった渋谷のデモにも参加しました。けれども2015年9月、安保関連法成立。12月には「安保法制の廃止と立件民主主義の回復を求める市民連合(通称:市民連合)」が発足し、磯貝さんは市民連合@新潟の共同代表を務めることになりました。

「私は原発事故の前は選挙に行ったこともありませんでした。でも震災後、娘たちの安全を守りたい一心で学び始め、いろいろな社会問題にも目が向くようになり、黙っていられなくなってきて。全ての子どもたち、新しい世代の人たちが安心できる世界にしたいという思いが、どんどん強まっていきました。

新潟で流れる柏崎刈羽原発のCMを見て、その反対運動にも関わるようになっていました。安保関連法のときは、私と同じように、それまで政治に目を向けていなかった人たちもたくさん声を上げた。すごく心強くて、こうして立ち上がっていくことで何かが変わる、変われる気がしていました。

また、選挙で人を選ぶこと、私たちの考えを届けてくれる代表を選ぶことはとても大事なんだ、と思うようになり、選挙のお手伝いもするようになったんです」

新潟での活動が広がるうちに、ここで投票できないのは悔しい、と住民票も郡山市から新潟に移します。そんな中で出会った人が、磯貝さんにこんな言葉を投げかけます。

「自分でやらないと、変わらないよ」

「自分が選挙に出ろ、と。最初はそんなことあり得ないと思いました。それまで私が想像していた議員さんは、大学を出ていたり、弁護士の資格を持っていたり、そういう人。そこに自分はまったく似つかわしくない。お手伝いまではいいけど、自分の生活を投げうって選挙に出るなんて絶対いやだと思っていました。

一方、議会の傍聴に行くと、これが本当に選ばれた人たちなのかというような光景も目にします。そういうことをSNSで発信しても、少数の人にしか伝わらないのがもどかしかった。

もしかして、似つかわしくない自分だからこそ、普通の人の気持ちがわかる。政治に関心がない、選挙に行かない人の気持ちもわかる。何かを変えられるのかもしれない。そんな思いも生まれてきたんです」

娘たちの健康を祈って毎日、お弁当を作り続けた

夫が住む郡山市と母娘3人が住む新潟市の間を行ったり来たりしていた磯貝家でしたが、経済的な負担は重くのしかかります。磯貝さんは避難指示区域外からの避難者(いわゆる自主避難)でしたが、2017年3月末で家賃補助終了することが決定。ついに郡山の自宅を売ることを決めました。

「おばあちゃんになるまで暮らそうと思っていたわが家です。本当は、ローンが払えれば、いつまでも持っていたかった。でも、どうあがいたって補助は打ち切られる。支払いができなくなるのが恐怖でした。売るしかない。悲しみはありましたけど、生きていくには思いきるしかありませんでした」

夫も長年勤めた会社を退職して新潟に移ることを決め、新潟で仕事を探し始めます。家族がまたひとつになれる。ようやく一緒に暮らせる。その動きと並んで、磯貝さんはついに議員立候補という大きな渦に飛び込んでいきます。

「議会では、ひとりひとりの議員の1票でものが決まっていきます。その場で私が避難者として『もし原発が再稼働して事故が起きたら故郷がこうなっていくんだ』と発言したら、再稼働できるはずがない。私はきっと抑止力になれるだろう、と思いました。絶対に再稼働させない。その1票に自分がなりたい。そんな強い思いでした」

2019年4月に行われる新潟県議会選挙を見据え、磯貝さんは立候補を決めた選挙区、新潟市南区に引っ越します。夫も合流し、家族4人の生活が再スタート。けれども、親戚も友達もいない「初めまして」の土地でのチャレンジには、想像以上の苦労が待っていました。

「『よそ者』という言葉を何度も言われました。それはそうですよね、もともと私は郡山から避難してきたよそ者なんです。でも、ここ新潟でなんとか生活を立て直していこうとしているのに。『そんなに議員になりたいんだったら福島に帰りなさいよ!』と玄関先で言われたことは忘れられません」



進学で上京する娘がくれた手紙

家族は磯貝さんに全面的に協力、応援してくれました。

「1月からずっと早朝の辻立ち(街頭演説)をしていて、そこを娘たちが乗った通学のバスが通るんです。ママ頑張ってる、と見てくれていたのかな。部活の送迎もなかなかできませんでしたが、『他の人に迎えにきてもらって』と言うと『全然平気だし』と言うんです。夫からは『寂しがってたよ』とも聞いて、ごめんねごめんねの気持ちでいっぱいでした。

でも、避難してからずっと、安全な食材や、放射性物質を排出すると言われる食材を選んで、免疫力を高める献立を考えて、娘たちにはお弁当を持たせていた、それだけは続けようと。毎朝、辻立ちの前にお弁当とごはんを作ってから出かけました。一人の母親としては、たった2人の子どもに向けて、娘たちが独立する最後までちゃんとお母さんをやりたかった。でも選挙のタイミングでしたから、しかたなかった」

選挙運動ラストスパートの3月末。進学のために上京する長女が残した手紙にはこんなことが書かれていました。

「ママ、18年間ありがとう。毎日かかさずお弁当を作ってくれて、放射能から守るために避難してくれて、やっと今になって本当に感謝しています。空気を気にしないで沢山走って、遊んで、ママのおかげで成長できました。選挙でママが勝つと思うよ。今まで頑張ってきた努力やママの想いが伝わりますように」

黙っていたら変わらない。次にできる行動を続けたい

  • 磯貝潤子さん

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  • 「選挙ではたくさんの方に応援していただきました。お互いの弱い部分に寄り添い合ってこれからの時代を生きていきたい」

19年4月7日、投票日。磯貝さんは8000票あまりもの支持を得ましたが、惜しくも落選します。

「真っ白になった気分でした……。約4カ月間走って走って、その日は夢の中でもまだ選挙をやっていて、翌朝、泣いて目が覚めました。

柏崎刈羽原発も再稼働してしまうかもしれない。その決定のプロセスに私も必ずかかわるんだと思っていたけど、それができないなら次に私は何がやれるんだろうか。今はそういう不安があります。

私は何のためにここで活動しているのか、何が好きで何を大事に生きてきたのか、大事なものをちょっとあきらめてまでも政治をやろうと思った理由は、本当は何だっけ……今までは、子どもの顔を見たら、よし、頑張ろうと思えた。でも娘2人が家を出てしまった今、何に胸を震わせて立ち向かっていくのか、わからなくなることもあるんです。

そうしようと思えば、見ないこともできる。もう避難じゃない、傷も癒えて自分で歩いて行ける。お買い物をしてカフェでお茶して、ハッピーな気持ちで帰ってきて今日も楽しかったな、というふうに。

だけどやっぱり、あのときの怒りにふたをしたり、ふさいだ傷を、もう大丈夫、きれいに治りました、とはできないことがたくさんあったなと。怒りというより、怒りのもっと下にあったのは悲しみなんです。もっと早く子どもを避難させられず、被ばくさせてしまった後悔や。

本当はこんなことができたんじゃないか、それをやらなかったことに対して背は向けられない。そこを決着しないと死ねない、死んだら地獄に行きそうな気がするんです。私の大きな罪を自分でちゃんと償っていかないとだめなんです」

起きてしまった事故は磯貝さんの罪ではないのに、なぜそこまで自分で背負うのでしょう。

「すごく期待していたんだと思います。助けようと思えば助けられる人たちがいたであろうに、政府とか、財界とか、どこでもいいですよ、例えばなぜ急いで子どもたちだけでも避難させなかったのか。

私は期待していたんです。いつ始まるんだろう、いつ起こるんだろうと思っていたけど、待てど暮らせどそんなことはなくて、結局、みんなが我慢したり、自分たちの力で何とかするということになって、今に至っているわけですよね。

私も黙っていたけど、それは逃げだった。そのしわ寄せは子どもたちがくらってしまう。だから自分で行動しようと決めたんです。

洗い物をしてひび割れた手で議会に行って、夕飯の献立も考えながら政治のことも考えられる、そういう人がいないと、いつまでたっても私たちにとって政治は遠いものです。頭が悪くてもいい、間違えてもいいから、ワカメの味噌汁を作りながら政治を変えていかないと、と」

生きてきた場所は違ってもそれぞれの問題は共有できる

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  • 2021年2月20日のイベントでは、福島、新潟で取材を続ける新聞記者を迎えてオンラインイベントを開催。

  • コロナ前2019年。福島の子どもたちの保養イベント風景。磯貝さんはご飯係の隊長

選挙活動を通して、磯貝さん自身にも変化がありました。

「ここ南区は、私たちの食を支えてくださる農家の方がたくさん住んでいる場所です。電車が通っていない区で、交通はとても不便です。初めてそういう場所に住んで、よそ者と呼ばれましたけど、今まで考えてもいなかったことにも目を向けるようになりました。

避難者となった自分はたいへんだと思っていた、もしかしたら自分たちのことをかわいそうだと思っていたんですけど、他の立場の人にもそれぞれ抱えている問題がある。そういうひとりひとり、ひとつひとつが少しずつ見えてきたんです。

例えば今、女性の自殺が増えています。私も大切なものをたくさん捨てて避難したとき、子どもがいなかったら死にたい、ぐらいに思った記憶がありますけど、死なずにいた自分と、今、コロナ禍でいろいろなものを失って死を選んでしまう人と、何が違うのか。その違いは寸分の差ぐらいでしかないのかもしれない、と感じます。

選挙運動中、なぜか私のことを見て泣いてくださる女性が何人もいらしたんです。最初は、避難者の私をかわいそうだと思ってくれているのかな、と。でも、どうもそうではないような。

その方たちに聞いたわけではありませんから、私がそう感じるだけですけど、もしかしたら、生きてきた場所は違っても、これまで似たような理不尽な思いを味わってきた方たちが、私に何かを感じて、心を寄せてくださったのかなと。そういう女性のために、私はもう一度がんばれる。そういう方たちに誠実にこたえたいんです。

私はたまたま原発事故の被災者になった。なってみて初めて、ああ、私の問題だったと気づく。コロナ禍で『これは自分の問題だった』と気づく人もいる。それぞれの問題は、決して“私には関係ない”ことではないと思うんです。

だから、おしゃれを楽しんだり、おいしいものを楽しむのといっしょに、みんなでそういう問題を共有して生きていく、みんなで考えていくことがすごく大事なんだと思っています。

以前は、避難体験を一方的に話す場が多かったし、私は私の避難の話しか知らなかったけど、同じ避難者の話も一個一個違って、『そんなことあったの?』という話がたくさんあります。

柏崎市の選挙のお手伝いに行ったときは、原発に不安はあるけど、反対派には入れない人たちの複雑な気持ちなども感じました。

これがいい、悪いという答えをすぐに出すのではなくて、もっと台所でお茶しながら話すような、座談会のような場を作って、身近な人とおしゃべりしながら考えて、また新たな人ともつながっていきたい。今はそんなことを考えています」

それぞれ夢を持って上京した娘たち

長女は美容師になりました。次女は栄養士を目指して学校に通っています。

  • 磯貝潤子さん

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  • 「娘たちはすくすくと健康に育ちました。私がしてきたことのベースは間違いなく彼女たちに伝わっている、と感じています」

  • 「長女は成人式を迎えました」

  • 「成人式の前撮りのヘア!」

「コロナ禍で長女の就職を心配していましたが、おかげさまで東京で人気の美容室に決まりました。最終面接で『親に感謝の意味を込めて、ちゃんと働いていきたい』と言ったらしいです。その美容師さんも被災地支援でたくさんの方の髪の毛を切りに行った経験があるそうで、『その気持ちがあるなら何があっても負けないと思う』と言ってくれたそうです。

今は2人とも東京で、きちんと食材を選んで自炊しているのかな。私が見ていないからたいへんなことになっているかもしれません(笑)。でも、もう娘たちも自立ですから、あとはそれぞれ自分で気が付いていけばいいと思います。

私がしてきたことのベースは、彼女たちのどこかに間違いなく伝わっている、と信じています」

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大切なものを捨てて避難した私たち、今コロナ禍で何かを失っている人たち、その差は寸分でしかありません。

 


※2021年2月13日に東北地方を中心に大きな地震が起きました。被害を受けた方々に心よりお見舞い申し上げます。(取材は2020年12月に行われました)

イラストレーション/わたなべろみ 取材・文/石川敦子

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