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LIFE

福島綾香

東日本大震災から12年。今伝えたいこと、故郷への思い【震災遺構スタッフインタビュー】

  • 福島綾香

2023.03.04

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あの日から、12年目の春

荒浜小学校 バルーンリリース
東日本大震災から、今年で12年を迎えます。
未曾有の大災害でしたが、それでも年月を経るごとに「あの日何してた?」という会話も少なくなりました。

生まれも育ちも宮城県仙台市の私。発災時はすでに地元を離れ、関東の職場で内勤中でした。
駅前のビルやバスがぐらぐら揺れて、今にも倒れそうだったこと。宮城で震度7と知り、ほどなく母から「無事?無事だよ」とメールが届いて安堵したこと。お互い一人暮らしだった福島出身の同僚とわが家に身を寄せ、故郷の様子に呆然として、テレビを消したこと。

実家では2カ月近くライフラインが戻らない中、母は「今日はお父さんが〇〇スーパーまで歩いて買い物に行ったよ。1人10点までで、野菜1個でも、ビール1ケースでも1点なんだよ」「スポーツジムを開放してくれて、久々にシャワーを浴びたよ」なんて気丈なメールをよこしたこと。そのスーパーもジムも、家から歩いて何十分だろう…と胸が締め付けられたこと。手に取るように思い出されます。

私より大変な経験をされた方はたくさんいらっしゃいます。それでも、今ライターをしている私にできることはないか。記事を書くことで、微力でも記憶を繋ぐことができたら…そんな思いで筆を執りました。

おこがましいですが、ほんの少しでも、あの日に思いを馳せるきっかけとなりましたら嬉しいです。

「津波が来ているから戻れ」。そんなわけないだろうと思った

今回、震災を地元で経験し、以来ずっと現地で活躍されている方にインタビューさせていただくことができました。
震災遺構・仙台市立荒浜小学校のスタッフであり、毎年3月11日に現地でのイベント「HOPE FOR Project」を開催している髙山智行さんです。

髙山智行さん

髙山智行さん(震災遺構仙台市立荒浜小学校職員/HOPE FOR project主宰)

発災当時のことをはじめ、これまでとこれから、今伝えたいことなど、お話を伺いました。

■震災当日のことを教えていただけますでしょうか。

あの日は仕事が休みで自宅にいました。海から自宅までは4kmほど。津波が来ることは予想できましたが、ここまで届くとは到底思いませんでした。
発災後すぐにインフラが全てダメになったので、当日夜の寒さに備え、ストーブの灯油を買いにガソリンスタンドへ車を走らせました。揺れから30分後ほどのことです。

その時、警察の方に「津波が来ているから戻れ」と言われて。そんなわけないだろうと言い返したのですが、あまりに語気を強められ、やむなく引き返しました。すると、田んぼに水が走ってくるのが見えたんです。母と祖父、近所のご夫婦を車に乗せ、津波に追いかけられながら逃げました。私が見たのは第一波、まだ車のバンパーくらいの高さでしたが、あと数秒遅かったら車ごと飲まれていたかもしれません。

先ほどの警官の方は亡くなってしまったんです。強い口調で言い返してしまったことを、もう仕方のないことですが悔いています。自宅は流されこそしませんでしたが、全壊判定となりしばらく帰れませんでした。

避難先の小学校には、当日は約3000人が身を寄せていました。母や祖父はすぐ内陸にある親戚宅へ移りましたが、私は小学校に戻ったんです。
電話やメールはほぼ不通の状況で、比較的繋がりやすかったツイッターに「ここにいる人なら私が探します」と流すと、遠方の人などからたくさん返信がきて。そこからは安否確認をして連絡する日々でした。
最初は生きて見つかったことを伝えられましたが、2週間もすると…。会ったこともない相手にDMで訃報を伝えるなんて、という葛藤はありつつも、求められる限りは続けていました。

その後は「HOPE FOR Project」(詳しくは後述)の活動を始めたり、元地域住民の方々の声を聞く座談会を開いたりと、災害危険区域となった荒浜地区に人が集える場づくりをしてきました。

2017年4月、荒浜小学校が東北初の震災遺構として開かれることになった時、管轄する仙台市から「震災前や震災時の荒浜を知っている人は多いけれど、震災後のことも知っている人は貴重だから」とお声がけがあり、以来スタッフとして働いています。

震災遺構・仙台市立荒浜小学校の意義

震災遺構・仙台市立荒浜小学校 外観

震災遺構・仙台市立荒浜小学校 内観1

震災遺構・仙台市立荒浜小学校 内観2

■震災遺構となった荒浜小学校には、どんな方が訪れていますか。展示を通して伝えたいことは何でしょうか。

来館者は県内外、一般の方から修学旅行生まで様々です。今年度からは、仙台市内のすべての小学校が防災学習で訪れることが決まりました。12年が経ち、震災を知らない世代にも、自分事として感じてほしいという狙いです。今年2月からは展示を一部改修して「防災教育コーナー」ができ、より子どもたちに分かりやすい内容になりました。

震災遺構には、当時の出来事や防災・減災を伝える役割ももちろんあります。しかしそれだけでなく、震災前、この町にあった暮らしや営みにふれることで “自分が今住む町の文化や大切さを知る” という意義もあると思っていて。

幼稚園の子なども来ますが、小さいからといって何も感じないわけではなく、子どもなりの感性や想像力をもって見学しています。その様子をみると、ここの空気をまとって何かを感じてもらうことは、年齢関係なくできるのではないかと思っています。

「HOPE FOR Project」3.11に人々が集まり、思いを寄せる場所

バルーンリリースをする人たち

■毎年3月11日に開催されている「HOPE FOR Project」の活動について、始められたきっかけ、イベントの様子などを教えてください。

震災で身内を亡くした同級生もいたので、翌年の3月に自分たちで何かやろうと企画したのが始まりでした。バルーンリリースをしよう、せっかくだから花の種を入れようと。

最初は内輪だけのつもりでしたが、3月11日当日、荒浜に1700人くらいの人が集まりました。風船も多めに用意していたので、いる人に声をかけて「皆で飛ばしましょう」と。その時、祈る人、涙を流す人…思いもよらない光景が広がっていて。灰色の街に色がもたらされた瞬間でもありました。

それ以降、3月11日に人が集まる場所・思いを馳せる時間があることに意味があると思い、活動を続けています。
荒浜の街に風船が飛ぶ様子

2014年からは音楽の演奏も始めました。暮らしや学校の中に当たり前にあった「音」を、1日だけでも復活させたくて。放課後の時間帯に、荒浜小の音楽室で、卒業生や荒浜地区にゆかりのある音楽家の方の演奏などを行っています。

コロナ禍では見送っていましたが、今年は4年ぶりに現地で開催。震災まで荒浜小学校に置かれていたピアノを1日だけ戻して、世武裕子さんに演奏していただく予定です。

過去の演奏の様子

過去の演奏の様子



12年目の今思うこと、伝えたいこと

■12年を迎える今、伝えたいことや、震災を経験していない世代に知ってほしいことはありますか。

忘れることで楽になることもありますし、「忘れないでほしい」という訳ではありません。

ただ、12年経っても街に入れない、もう海には行けないという人もいること。仙台の街中にはもう爪痕はほぼないけれど、沿岸部には今もこういった場所があること。生き延びた人たちは様々な思いを抱えながら今も生きていること。そういったことに、3月11日だけでもいいので、思いを馳せてもらえたら。

かつて荒浜小の児童だった人が、校内に展示している以前の町並みの模型を見ながら、懐かしそうに過ごしている姿を見かけることがあります。窓の外に家はなくとも、小学校が彼ら彼女らの帰る場所でもあり、拠りどころになっている。この場所が、ただの被災地、悲しみにあふれている場所ではなく、豊かな暮らしがあった故郷だったということを知っていてほしいです。当事者の気持ちを理解するのは難しくても、知っておくことはできると思うんです。

以前の町並みの模型

以前の町並みの模型

■故郷である荒浜への今の思いを伺えますか。

最近、震災のころ荒浜小に通っていた子どもたちの話を聞く機会がありました。小1だった子も今は大学生、社会人の子もいて。当時6歳でも断片的な記憶は鮮明に残っています。

この町はもう災害危険区域で住めない。これからも事業者による利活用が進む。“にぎわいの創出” とされ、もちろん悪いことではないのですが、「住めるなら住みたい」「土地を買い戻したい」「家があった場所は雑草だらけだから、せめて草刈りをしたい」…そんな彼らの声を聞くと、復興って何なんだろうと思うこともあって。

荒浜地区の様子

荒浜地区の様子

利活用と両立しながらも、「ここが私の故郷です」と思っている彼らの声をこの土地に残すことができたら、というのが今の思いです。

自分が荒浜小にいる意味も、展示だけでなく「人」がいることで、手触りをもって伝えられることにあるんじゃないかと。
彼らの声に耳を澄まして、これからの街のこと、この小学校のありかた、誰の何のための荒浜なのかを考え続けなければいけないなと思っています。

思いを寄せてもらえることが、励みになる

バルーンリリース イメージ
「こうして思いを寄せてもらえることは励みになります。記事を読んで、実際に荒浜を訪れてくれる方がいたらなお嬉しいですね」とも語ってくれた髙山さん。

印象に残ったのは、「震災前の荒浜地区にあった暮らしや営みにふれることは、自分が今住む町の大切さを知る意味もある」ということ。
そして「この場所が、ただの被災地、悲しみにあふれている場所、防災・減災を伝える場所だけではなく、豊かな暮らしがあった故郷だったということを知っていてほしい」という言葉でした。

東日本大震災だけでなく、大小を問わず被災経験のある方はたくさんいらっしゃると思います。それぞれの経験をふまえて、備えを見直すことはもちろん、今いる街や人、日常を大切にできたらと改めて感じました。

最後になりますが、震災で被災された皆さまに心よりお見舞い申し上げます。
私自身、これからも命の大切さや得た教訓を胸に、自分にできることを続けながら、故郷に思いを寄せていきたいです。

2023年3月11日の「HOPE FOR Project」概要

【詳細はこちら】HOPE FOR Project 公式サイト内 震災遺構・仙台市立荒浜小学校 公式サイト

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福島綾香 Ayaka Fukushima

ライター

宮城県仙台市出身。夫、息子(2018年9月生まれ)と3人暮らし。これまでフリーペーパー、旅行情報誌などの編集を経験。趣味は食べること、旅行、読書、Jリーグ観戦。

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