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45歳で離婚しアメリカ留学。60歳で人気ケーキ店『松之助』オープン。オーナー平野顕子さんが覚悟した「1人で生きていくこと」【65歳すぎて再婚も!】

  • 武田由紀子

2022.02.20

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子育てが落ち着いてきた40代50代。「さて、これからどう生きる?」と考えた時、どんな人生を想像しますか。京都と代官山に人気アップルパイのお店『松之助』とお菓子教室を構える平野顕子さんは、子育てを終えた45歳で離婚、単身アメリカへと留学します。留学先でアップルパイと出会い、日本で教室を始めるきっかけになりました。

そんな平野さんが自身の人生を振り返る最新著書『「松之助」オーナー・平野顕子のやってみはったら! 60歳からのサードライフ』(主婦と生活社)が発売されました。70代を迎えた今はアメリカと日本を行き来し、趣味に仕事にアクティブに生きる平野さんにインタビュー。留学のきっかけやアップルパイとの出会い、今を生きる40代50代に向けて伝えたいことを聞きました。子育てを終えたセカンドライフ、そしてサードライフをどう生きるのか、「覚悟を決めたら前に進むだけ」という言葉は、私たちの背中を押してくれるはずです。

平野顕子●京都の能装束織元「平のや」に生まれる。47歳でアメリカ・コネチカット州立大学に留学。17世紀から伝わるアメリカ・ニューイングランド地方の伝統的なお菓子作りを学ぶ。帰国後、京都・高倉御池に「Café&Pantry 松之助」、東京・代官山に「MATSUNOSUKE N.Y.」と、アップルパイとアメリカンベーキングの専門店をオープン。また京都と東京に、お菓子教室「平野顕子ベーキングサロン」も開校。2010年、京都・西陣にパンケーキハウス「カフェ・ラインベック」をオープン。著書に『アメリカンスタイルのアップルパイ・バイブル』(河出書房新社)など多数

「子どもが巣立った後、夫と2人で生きるのは辛い」離婚を決め、東京の娘の住まいに居候する

—-これまでレシピ本は多く出されていましたが、今回はエッセイでした。本を出そうと思ったきっかけを教えてください。

45歳で離婚そして留学し、ここまで走り続けてきましたが、少し立ち止まって人生を考えてみたいと思いました。今までの経験、やってきたことを文章にしたら過去を振り返られるかもしれない、と思い。そんな矢先、10年来の付き合いがある編集者さんから声をかけていただき、本を出させていただくことになりました。

—-著書を拝見して、まず感じたのが「子育てが終わっても新しいことができる」「何歳からでもやりたいことができる」ということでした。そもそも離婚、留学を決めたのは、どんな経緯からだったのでしょうか。

私は23歳で結婚し、福井の小さな港町の歯科医に嫁ぎました。娘息子をそれぞれ授かりましたが、田舎町だったので「とにかく目立たないように」と言われ、私の仕事は子育て・子どもの教育だと考えていましたね。子どもが大学生になった時、「子どもが巣立った後、夫と2人で生きるのは辛いな」と思い、離婚を決めました。後先を考えずに離婚した感じです。計画や予定も何もありませんでしたよ。娘が住む東京の部屋に居候しながら、「なんとか1人で生きていかなくてはいけない」でも「職もない」と考えながら、1年ほどブラブラと過ごしていました。そんな時「昔、アメリカに憧れていたな」「そういえば留学したかったんだ」と思い出し、アメリカに留学しようと決意しました。

—-「夫と2人で生きるのは辛い」というのは、どんな理由からですか。

いろいろなことが合わないな、ということですね。小さなことですが、私は色彩感覚が大事だと思っていたので、娘に赤やピンクの洋服はほとんど着せませんでした。黒、白、紫とかが多かったです。子どもにも大人の感覚を学ばせてあげたいと思ったからです。今でも覚えていますが、娘に紫のイヴ・サンローランのTシャツを着せていたのですが、夫は「すぐに成長するからスーパーの吊るしの服でいい」という考えの人でした。娘と息子で性別も違うので、それぞれ違う服を用意しなくてはいけないからお金もかかります。だけど、私は「成長するから安いものでいい」ではなく「色彩や良いものが理解できる感覚を養いたい」と思っていました。そういった価値観の違いの小さな積み重ねですね。

幼少期から憧れだったアメリカへ、47歳で留学を決意。最初に合格通知が来た大学に縁を感じた

—-47歳での留学、とても決断力があると思いました。留学にはどんな思いがあったのでしょうか。

アメリカに、どこか憧れがあったんです。幼稚園の時の親友がアメリカ人の子で、お家にお邪魔したら大きなクッキーが出てきて「素敵だなあ」と思ったのは今でも覚えています。中学・高校は私立の学校で、ほとんどが外人の先生で英語を話していました。日本語ができない先生でしたから、自然と英語に慣れ親しんでいたんですよね。結婚して21年間は夫が英語アレルギーだったこともあり、子どもたちに英語を習わせたりすることもなく離れていました。英語はほとんど使わなかったのですが、不思議と自信があったんですよね。それで「留学しよう」、留学して英語を勉強して「英語で身を立てようと」と思ったんです。

—-留学するために、どんな準備をしましたか。平野さんは21年間主婦で、働いた経験も無かったそうですが、そこから留学となるとハードルもありそうですが。

アメリカの大学に行くとなると、慣れ親しんだ英語レベルではだめでTOEFLで一定以上のスコアが必要になります。そのために神田の学校に通いました。当時はかなり単語力があったのか、勉強しながらだんだん英語が入って来るのを感じましたね。授業を受けながら、分からない単語は調べて覚える。なぜその時一生懸命できたかといえば、離婚をして1人になり「生きなくちゃいけない」、生きるためには「食べなきゃいけない」、そのためには「職がないといけない」。自分で生きるために「英語を学んで仕事にするんだ」という覚悟があったからだと思います。

—-留学先は、どのように決めたのでしょうか。

勉強しながら、留学にまつわる大学の資料を集めました。この大学は TOEFL何点以上必要なのかと調べたり、授業料を確認したり。結局は州立大学でないと予算的に厳しい、できれば四季のある東海岸がいいなどと条件を絞っていき、希望した大学の願書を取り寄せました。全部で3つ、4つの州立大学に願書を送ったのですが、最初に返事が来たのがコネチカット大学だったんです。そこでコネチカット大に決めました。

「英語で身を立てるのは難しい」と気づく。教授からのアドバイスが人生を切り拓いた

—-離婚・留学という展開に、お子さんたちはどんな反応でしたか。著書の中では前向きな娘さんに対して、堅実で論理主義な息子さんの様子が対照的に書かれていて興味深かったです。

本当はもっとリアルに書きたかったくらいいろいろ言っていました(笑)。息子は口が達者でクールなタイプなのですが、彼の口グセは「どこからその根拠のない自信が生まれるの?」なんですよ(笑)。自信はないけれど、たまたま出会って、ご縁があったから私はやろうと思って。コネチカット大も最初に返事が来たことで「縁がある」と感じたわけです。ただし、縁とはいえ覚悟を持って決断しました。勇気なんて、そんな簡単に出るものじゃありません。ただ、覚悟だけはあったと思います。

—-留学先で実際に英語を学び始めてから、「現実はそんなに簡単じゃない」と気づいたそうですね。その時は、どんな気持ちでしたか。

「自分の英語力では無理だ」と分かってしまいましたが、日本に戻ったら何かしなくてはいけない。どうにかお金を稼がないといけない。でも、子どもたちの世話にはなりたくない、と悩んでいました。そんな時、親しくなった大学のアナ・チャーターズ教授にアドバイスをいただいたんです。ニューイングランドのデザートを作ってみたらどうかと。アメリカのデザートだと美味しくなさそうなイメージだから、ニューイングランドがいいわよ、と。私は食べるのが好きで興味はありましたし、ケーキも作ったことはありました。信頼する教授から受けたアドバイスだったので、「そう、それよ!」と、ひらめきました。そしてケーキ作りを教えてくれる先生を探し始めました。



教授に「おうちに遊びにいらっしゃい」と誘われ、ケーキをごちそうに。家に住まわせてもらうことに

—-教授のアドバイスがケーキ教室と『松之助』をオープンするきっかけになっていたのですね。教授とはどんな縁で出会ったのでしょうか。

彼女は文学部の教授で、私は彼女の授業を受けていました。授業が始まってしばらく経った頃、「年下が多い中で頑張っていますね」と声をかけてくれたんです。ほとんどが18歳や20歳の学生の中で1人47歳の私がいたわけで、教授と一番年齢が近いのが私だったんですよね(笑)。そして教授が「一度、うちへ遊びにいらっしゃい」と誘ってくださって。遊びに行ったら、教授がポピーシードのケーキをちゃちゃっと作って出してくれたんです。「お家で作るケーキ、とてもおいしいですね!」と言うと、「簡単なのよ」と教えてくれて。このやりとりから始まりました。

その後、教授が「うちに住まない?」と誘ってくれたんです。私は、当時大学院生の寮にいたのですが、キッチンのない部屋で料理が作れませんでした。願ってもないことだったので、ありがたく住ませてもらうことにしました。最初知らなかったのですが、教授はビート・ジェネレーションを研究する有名な作家だったんです。教授のご主人は音楽プロデューサーで、おうちもとても素敵でした。地下にあるキッチン付きの部屋でしたが、とてもプライベートな空間で居心地も良くて。賃料をお支払いして7ヶ月ほどお世話になりました。たまに教授から「食べに来ない?」と誘ってくれて、一緒に食べることもありました。その都度ケーキを作って下さるんですよね。

昨年の12月に行われたイベントで作り方を披露したアップルパイ。りんごを蒸し焼きにするのがアメリカンスタイル。

—-生徒だったのが、年齢が近かったことでグンと距離が縮まったんですね。平野さんの人生を変えるアメリカンケーキとの出会いも、大学の教授がきっかけだったことに驚きました。

留学は2年ほどでしたが、今振り返っても教授との出会いが私にとって一番大きな出会いだったと思います。いつも気さくにケーキを作ってもてなして下さる方でしたが、言葉の使い方一つにまでこだわる厳しい一面もありました。間違っていると、論理的に一つずつ説明してくれましたね。年間何冊か本を出されている方だったので、いつも本や資料を携えて、何度も読み返して直すといった作業をよくしていました。帰国して京都に戻った後、教授のご夫婦を日本へご招待したんですよ。

「1人で生きていかなきゃいけない」余裕はなく必死だった、前に進むしかない

—-その後、アメリカンケーキの作り方を3人の先生から学び、帰国。日本に戻ってからアメリカンケーキのお菓子教室とお店をオープンします。40代50代を振り返ると、とてもバイタリティがあり、行動力のすごさを感じました。そのエネルギーの源はどこにあるのでしょうか。

「離婚をしたから1人で生きていかなきゃいけない」、それだけですね。それまで働いたこともなく、誰からの後ろ盾もなく留学して帰ってきて。生きるということは納税もしなくてはいけないし、食べることも必要です。それを全て自分の手でやって来たので、ずっと余裕が無かったんです。そこそこ裕福な家庭に生まれたこともあり、私の仕事もお遊び程度と思われる方もいるかもしれませんが、そんなことは全くなく必死でした。実家からの援助なんて一銭もありません。とにかく必死でした。必死さから、とりあえず前へ進むだけ。それが今に繋がっていると思います。

—-21年間の主婦を経て、留学そして起業。子育てを終えたセカンドライフで新しいことにチャレンジし、さらに60代で再婚し、サードライフまで豊かに生きる。そんな平野さんの人生の気づきやアイデアが詰まった著書が『「松之助」オーナー・平野顕子のやってみはったら! 60歳からのサードライフ』です。

ご結婚なさっている方が新しいことをする場合、夫や家族の理解が必要だと思いますが、結婚を続けながらチャレンジすることもできるとは思います。私は子育てを全うはしましたが、一度目の結婚は全うできませんでした。今子育て中の方は、子育てや家事を自分の与えられた運命・仕事だと納得している方も多いと思います。でもこの先、子育てが終わって夫と2人の生活になった時、自分がどんな生活をしたいか、どんな風に生きたいかは考えておいたほうがいいかもしれません。

私の娘が今47歳で、私が留学をした年齢と同じなんです。でも娘の子どもは9歳と6歳で、子育てする年齢も大きく変わって来ています。再婚する時、息子に言われたのは「よもよも相手が自分を幸せにしてくれると思ったら欲しいと求めるのは大間違い。自分がその人といることで幸せを感じるなら結婚したらいい。自分がその人と一緒にいて幸せなら、それ以上求めるな」と言われました。相手に幸せにしてもらおうと思わない、自分が幸せならそれで十分ということに気づき、なるほど「次の結婚は全うしないと」と思いました。

アメリカと日本を行き来する2拠点生活。再婚後は、スキー・釣り・仕事とサードライフを満喫

—-「やってみはったら!」は、京都弁で「やってみたら」という意味です。幾つになってもチャレンジすることを恐れず、まずは一歩踏み出すことを教えてくれる本でもあると感じました。

人は、何かやろうと思って決断しますよね。その時の答えが「どうだろう?」「大丈夫かな」と不安に思うかもしれませんが、それが今の自分にとって正解だと思えないと次に進めないでしょう。決断、決心するだけでもすごいことなんです。だからと言って簡単には決断を出さず、じっくりと答えを出すことも大切。ただし決心をしたら迷わない、それが正解なんだと信じて前に進むことが大事です。

本で書いているのは私の人生なので、みなさんにはそれぞれの人生があります。その都度、本を読んで何かお役に立てたら嬉しいです。なかなか一歩って踏み出せないですよね。勇気じゃなくて覚悟、覚悟できたら前に進めたらいいんです。決して安易に決断を出さなくていいんですよ。

—現在はアメリカに7ヶ月、日本に5ヶ月というサイクルで2拠点生活をする平野さん。67歳の時には、友人のガーデンパーティで出会ったウクライナ系アメリカ人のイーゴさんと再婚。アメリカにいる間は釣り、日本にいる間はお菓子教室とスキーと、充実した日々を過ごしています。

日本にいる間は、お菓子教室の合間にスキー三昧です。スキーは、昔少しやったことがある程度でしたが、本格的に始めたのはイーゴと出会った60歳から。やればやるほど面白くなって、今ではスキーが生活の一部ですよね。世界のいくつかの場所で滑りましたが、富良野とニセコの雪が素晴らしいんですよ。今は、富良野のホテルに道具を預けて、いつでも行けるようにしてあります。スキーをやるために料理教室で働いているようなものですね(笑)。ニューヨークでは夫の両親と一緒に暮らしています。狭いアパートなので、ずっと一緒にいると滅入ってしまうので、朝起きて釣りに出かけることで、うまくバランスを取っています。釣りはシーズンが4月から10月、スキーは11月から3月くらいまでと、それぞれちょうど都合がいいんですよね。

—-料理教室では生徒さんとの交流が楽しみだそうですね。ケーキ作りから、どんなことを伝えたいと思いますか。

生徒には女性が多いですが、夫婦で参加される方もいらっしゃいます。私が教えているのは、お菓子作りの論理や科学ではなく、家で楽しくケーキを作ることです。生徒さんの反応やおしゃべりがすごく楽しみなんですよ。「楽しかった!」と言ってくれたら、次も頑張ろう!と思います。

お子さんに普段から甘いものをたくさん食べさせる必要はないと思いますが、親が作ってくれることで子どもは自分が愛されている実感できるのではないかと思います。ただし、毎日食べるものではなくて1週間に1度、特別なものなのよ、という感じで作ってあげるといいのではと思います。本の中でも、アメリカンアップルパイやオープンアップルパイの作り方を紹介しているので、ぜひ作ってみてください。

昨年の12月に行われた出版記念イベントの様子。30人以上が参加し、アップルパイの実演を熱心にメモする人も多数いました

撮影/山崎ユミ(平野さん)
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『「松之助」オーナー・平野顕子の やってみはったら! 60歳からのサードライフ』(主婦と生活社)

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武田由紀子 Yukiko Takeda

編集者・ライター

1978年、富山県生まれ。出版社や編集プロダクション勤務、WEBメディア運営を経てフリーに。子育て雑誌やブランドカタログの編集・ライティングほか、映画関連のインタビューやコラム執筆などを担当。夫、10歳娘&7歳息子の4人暮らし。

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