【被災ママたちそれぞれの今】「着の身着のまま逃げたあの日から、 自分の中に時計を2つ持って生きています」
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LEE編集部
2016.09.06
東日本大震災からもう5年、まだ5年。
あなたはどちらに感じますか?
あの日、被災地にいたママたちは、どんな状況でどんな思いで5年目の日を迎えるのでしょうか。LEEは、彼女たちの心に寄り添い取材を続けてきた方に、取材先で出会ったママたちを紹介していただいて会いに行ってきました。
強制避難になった人、福島に住み続ける人、自主避難を選んだ人。
置かれている状況や選択の理由はそれぞれですが、子供たちの未来を思っての行動なのはみんな同じです。どうか彼女たちのこの5年間の思いを感じて、彼女たちとの心の距離を近づけていただければうれしいです。
東日本大震災から5年。被災ママたち、それぞれの今
【福島→名古屋】鈴村ユカリさん
「着の身着のまま逃げたあの日から、 自分の中に時計を2つ持って生きています」
【福島】佐原真紀さん
「迷いはすごくありました。でも今はここ福島で、子供を守るためにベストを尽くしたい」
【福島→新潟】磯貝潤子さん
「たくさんの大切なものを捨てて選んだのは、娘たちの命」
着の身着のまま逃げたあの日から、自分の中に時計を2つ持って生きています。
●PROFILE 鈴村ユカリさん
福島→名古屋
すずむら・ゆかり●神奈川県出身。43歳。名古屋出身の夫と出会い、結婚。ユカリさんの父親が経営していた、福島原発のメンテナンス会社を夫が継ぐため、’05年、家族で福島県富岡町に移住。現在、長女が中学3年生、長男が小学6年生、次男が小学4年生。
原発が爆発? 突然、悪夢の中に投げ込まれた
目の前に海が広がり、車で30分走れば阿武隈(あぶくま)山脈が見える。
「自然のあふれる福島で、家族みんなが笑顔の多い人生にしたいね」
一大決心で、名古屋から富岡町への移住を決めたという鈴村家。築50年の古民家を買ってDIYやガーデニングを楽しみ、友達を作り、着実に福島に根を張っていったのが震災前の5年間でした。
3月11日は東京の祖母が危篤との知らせを受け、出かける寸前に被災。
長女は小学校、長男は自宅、次男は保育園、福島第一原発のメンテナンスに携わる夫は屋外で作業中でしたが、その日のうちに全員、顔を合わせることができました。
「夫は『原子炉が止まって予備電源が動く音を聞いたので大丈夫』と。家はぐちゃぐちゃだったので、その日は家族で車の中で寝ました。ところが朝5時頃、『全町民避難』という防災無線が流れたんです。夫は町の消防団員でもあったので、すぐに招集され、私は子供たちを連れて西の川内村へ向かいました。そのときは数日したら戻ってくるようなつもりで、荷物はとりあえずの着替えだけでした」
原発よりも余震におびえる中で、12日に安定ヨウ素剤が配られ、避難所の体育館の窓が目張りされていきます。間もなく上空は飛行禁止区域になり、物資も途絶えました。
「その頃の写真があるのですが、町民が普通の格好をしている中で、消防団員の人たちが防護服を着て立っている。今思えば異様な光景でした」
原発の状況を説明されても、さっぱりわからない。知りたいのはここにいていいのか悪いのか。けれども考える隙もないほど、事態は悪いほうへ悪いほうへと転がっていきます。
15日。「もう、ここも危ない」と川内村と富岡町は決断し、行き先も決まらないまま住民の避難を開始。
鈴村家はまず東京へ向かいます。到着したのは祖母の葬儀が終わった後。親族が集まる忌中払いの席でした。
「着の身着のままボロボロになって逃げてきた私たちの前にごちそうが並んでいて、そのギャップに現実感がありませんでした」
その後4日間、ユカリさんの横浜の実家に身を寄せ、20日から名古屋の夫の実家に向かいます。
たどり着いた名古屋では、みな「普通」の生活をしていました。
「横浜では夫が毎朝4時から並んで少しずつ名古屋に行くガソリンをためました。それが、福島から離れれば離れるほど震災の影響を感じなくなっていき、名古屋に着いたらもう何事もなかったように普通。そのことがショックで、ショックで……」
もともと住んでいた名古屋には友達もいましたが、以前と同じように一緒に楽しくはしゃぐことはできませんでした。4月、富岡町の家の一帯が、立ち入ってはいけない「警戒区域」に。そのことを知ったのはテレビのニュースでした。
「とんでもないことになった。自分の中でまったく整理ができませんでした」
6月、夫は名古屋で職につきます。住民票は富岡町のまま、しばらく夫の実家で世話になり、借上げ住宅制度(仮設住宅と同じ扱いで、民間住宅の家賃を福島県が負担する制度)ができてから近くの集合住宅に引っ越し、今に至ります。
決して消えない強烈な傷を心に負った子供たち
子供たちは11年4月から近くの小学校と幼稚園に通うことになりましたが、しばらくして子供たちの様子がおかしいことに気づきます。
「小学生の長男がひとりになれなくなったんです。少しでも離れると『ママは? ママは?』が口ぐせになり、トイレも開けっ放しで、私と目を合わせていないと入れない。スクールカウンセラーの方に相談したら、PTSDの症状だと言われました。強烈な体験をした心の傷は、一生消えることはない。でも少しずつ“安心の貯金” をしていきましょう、と」
そのひとつの方法は、子供たちがいつも一緒にいた愛着のあるものを取り戻すこと。6月から始まった「一時帰宅」で、子供たちのおもちゃや、お気に入りの学用品などを富岡町の家から持ち帰りました。
「長男が七夕に『げんぱつがはやくなおりますように』と願い事を書いたときは、その笹飾りを富岡町の家に飾ってきました。3年生になった頃、『原子炉に入れるロボットを作る人になりたい』と言い始めて、今は一生懸命勉強しています」
あれほど恐ろしい体験だったのに、次男は震災のことを「覚えてない」と言うそう。長女は、自分の気持ちにふたをしてしまいました。
「テレビや新聞の取材を受けても一貫して『夢はありません。考えられません』と。それが最近、合唱祭の実行委員をやったり、『やりたいことがあるからこの高校に行きたい』と言うように。笑顔も出てきて、少し前向きに変わってきたんです。時間薬というか日にち薬というか……焦ったときもあったけど、こういうことは本当に気の長い話なんだ、とあらためて思います」
鈴村さんは、そんな子供たちひとりひとりのささいな変化や、見えにくい気持ちをくみとれるよう、注意深く見続けているそうです。
顔の見えないたくさんの善意。私も誰かに返していきたい
この5年間で、鈴村さん自身にも変化がありました。
「あのとき、凍えそうな避難所で霜焼けに腫れた子供たちの足を、鞄の中に入れてきたアロマオイルでマッサージしていたら『いい匂いだね』と周りの人たちがまねし始めた。その後の日々の中で何度も“気がおかしくなりそう”と思ったとき、それを思い出してアロマの学校に通い始めたんです。4月から教室を持たせてもらえることになりました」
今、鈴村さんは愛知県被災者支援センターでの活動に参加したり、講演などの依頼も引き受けています。
「震災の日から、私たちはたくさんの、見えない誰かの善意に支えられてきました。その方たちに直接お礼を言いに行くことはできないけれど、そういう形で誰かに返していきたい。普通の家庭の主婦だった私が全然違う形で忙しくなりましたが、そこでいろいろな縁がつながるのも悪くないな、と感じています。
でも……福島に骨を埋めるんだという覚悟で移住して何もかも一から作っていった、その5年間は、そっくりそのままあそこに置いてきてしまっている。ずっと2つの時計を持って生活しているような感じです。ひとつは名古屋でのリズムを刻み始めました。もうひとつの時計はゆっくりなのか、止まっているのか……」
富岡町の家がある区域は現在、避難指示解除が予定されています(2016年9/7現在)。けれども近くには、放射性廃棄物を詰めた真っ黒な袋が並ぶ仮置き場が。
「いつか帰るの?と友達に聞かれても、さぁ……。わからない、という状態で、もう5年になりました」
私が鈴村さんたち被災ママの取材を続ける理由
海南友子さん
かな・ともこ●ドキュメンタリー監督。’71年生まれ。東京都出身。映画『ビューティフル アイランズ』など受賞多数。著書に母たちを取材した『あなたを守りたい~ 3・11と母子避難~』、独の電力改革を取材した『マザーズ&エネルギー』など。
苦しい選択をした母として、同じ痛みを分け合っていきたい
1971年3月26日。福島第一原発1号機が稼働し始めた日、海南さんは生まれました。事故後にその事実を知って突き動かされ、原発から4 キロ付近まで入る取材をスタート。ところが4月、妊娠していることを知ります。
「おなかの赤ちゃんに何てことをしてしまったんだろう……と。現地に行ったことは、取材者としては正しかった。でもひとりの母として、私は大きな過ちを犯してしまった。そのことはずっと、今も後悔しています」
海南さんは京都への移住を決意。12月に男の子を出産後、自分と同じように、放射能汚染の危険から子供を守るためにさまざまな苦
しい決断をした母たちの取材を始めます。
「私はそれまでインタビューをしながら泣くことはなかったんです。取材者は、どこか冷静でいる必要がある。でもこの取材では"当事者"としての私になってしまって、どの方のお話を聞いても泣けて泣けて……。『何でこんなことになっちゃったんでしょうね』と思いを共有し、一緒に嘆き合いました。
でも、こんなに強い痛みをこんなにたくさんの人が同時に経験したんだから、本当に大事なのはここからだと思うんです。子供たちの安全をちゃんと考えられる社会に変えていけるかどうかは私たちにかかっている。5年たった今、余計に強くそう思っています」
ドキュメンタリー『抱く{HUG} ハグ』
命を育むことと、原発事故のはざまで揺れる監督自身の妊娠と出産を描いた映画。撮影のリサーチで鈴村さんと出会った。
http://www.kanatomoko.jp/hug/
撮影/高村瑞穂 取材・文/石川敦子
この記事は2016年3月7日発売LEE4月号でのインタビューを再掲載したものです。
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