温かい眼差しで一つの時代を作品に反映。コロナ禍の香港で支え合う苦労人の中年男性とシンママの物語。
ここ数年、日本では1990年代の香港映画界を代表するウォン・カーウァイ監督の作品のリバイバルブームが起きています。『欲望の翼』が公開されたのは1990年、彼のムードのあるスタイルは未だに日本のクリエイターに大きな影響を与えていますが、昨年来の香港映画界も新しい才能が次々と現れていて、ぜひ、注目していただけたらと思います。
中でも、ラム・サム(林森)監督の『星くずの片隅で』は、コロナ禍で苦境に陥った社会の中で奮闘するシングルマザーをやさしい眼差しで描いたもので、高い評価を得た作品です。レックス・レン監督と共同監督をした『少年たちの時代革命』(2019)でも、香港の民主化デモが警察に制圧されている現状に悲観した少女を助けようと、見知らぬ若者たちが懸命に探し回る物語を作ったラム監督。
ヒロインのキャンディを演じたのは、人気ミュージシャン、Vaundy「Tokimeki」のMVの主人公に起用され、注目を集めたアンジェラ・ユンさん。お二人に映画の背景について伺いました。
( 右)アンジェラ・ユン 袁澧林/ANGELA YUEN
1993年10月25日生まれ、香港のモデル、俳優。香港浸会大学を卒業し、学士号を取得。2015年にモデルデビューし、一流ブランドの広告塔やアンバサダーに選ばれ、一躍トップモデルに駆け上がる。ファッション・シーンから注目を集めるだけではなく、峯田和伸が率いるロック・バンド「銀杏BOYZ」のシングルのジャケット、Vaundyの『Tokimeki』のMVに起用され話題となる。クリストファー・ドイルが監督、脚本、撮影監督した映画『宵闇真珠』(18)ではオダギリジョーと共演した。本作にて2023年香港アカデミー賞(金像奨)最優秀主演女優賞にノミネートされた。
(左)監督 ラム・サム 林森/LAM SUM
1985年生まれ。香港演芸学院電影電視学院演出学科卒業。短編映画やドキュメンタリー映画の制作のほか、映画制作の講師としても活動。代表作に短編『oasis』(2012)、共同監督作『少年たちの時代革命』(2021/日本公開22年)など。本作が初の単独長編監督作。2022年よりイギリス・ロンドンを拠点に活動する。
コロナ禍の香港で最も過酷な仕事だった、清掃業者の奮闘記。
リューマチを抱える母と二人暮らしのザク。 ある日、昔の求人情報をつてにシングルマザーのキャンディがオフィスに押しかけてくる。
──アンジェラ・ユンさん演じるキャンディは幼い娘ジューを抱える身ですが、コロナ禍の中、清掃業者を営むザク(ルイス・チョン)に半ば強引に雇ってもらい、ビルの清掃をすることになります。日本でも、コロナ禍でのオフィスの清掃は、ウィルス感染で命を落とした方の報道があるなど、リスクの高いエッセンシャルワーカーとして注目を集めましたが、どういう発想でこの仕事にフォーカスされたのでしょうか?
ラム・サム 実はこの脚本を書いていたのは、コロナ禍に入る前の2018年なんです。どうして清掃業をザクという中年男性の仕事にしたのかというと、この仕事を窓口として、香港の社会の階層や、いろんな人の人生が見えてくることで、面白いと思って選びました。そうこうしているうちに2020年となり、コロナ禍に突入し、香港の経済が大きく衝動を受け、大変なことになりました。そこで、清掃業という職種をそのまま生かして、コロナ禍に設定をおいたからこそ、特に立ち向かう問題を、登場人物のキャラクターを通して、抽出して、表現したらいいんじゃないかと思い当たったんです。
コロナ禍、清掃業者の重要性は増した(アンジェラ・ユン)
アンジェラ・ユン ルームクリーナーという仕事は、それまでやったことがなかったんですが、そういう私だからこそ、コントラストが生まれて、挑戦し甲斐がある役だと感じました。映画の中で、キャンディはコロナ禍の中、とても大変な境遇にあるんですけど、彼女にとって大きなことはどうやって生きるか、そしてそんな状況ではもう職種など選べる状況にない。
まだ幼い娘がいて、ひとりで育てていて、何とかそこにいる状態から乗り越えようとしていて、なんでもやらなくてはいけない。元々、香港ではアウトソーシングが進んでいて、自分では掃除をせず、依頼をする若者も増えていたので、仕事として清掃業の重要性が増している側面もあったんです。
高温多湿な気温の香港での防護服姿の清掃は実に過酷。日本同様、コロナ禍での孤独死の増加も社会の問題となった。
──演じるにあたって、職業体験などはされたのですか?
アンジェラ・ユン 若い頃にアルバイトをしたことはありますが。今回は、実際の職業体験ではなく、専門の方からトレーニングを受けました。その時、一番大事なことだと言われたのは、もちろん、技術的な手順があり、それを守ってやらなくちゃいけないんですけど、それよりも、気を配って丁寧に掃除をする、ということでした。
劇中のザクみたいに凄腕のプロフェッショナルのベイヤーさんという人が、我々があなたに教えることは、「一番大事なのは、やっぱり心。心を込めて、気を付けて掃除をすること」ということでしたね。
シングルペアレンツへの支援はあるけれど、すぐに助けるシステムになっていない。
ザクは身寄りのないキャンディと娘の境遇がほっとけなくなり、手を差し伸べるが……。
──映画を見ていてとても面白かった対比が、ザクは一人で清掃会社を経営しているんですけど、なかなか厳しく、業務用の車も古く、調子が良くない。そのディーゼル車を見て、周囲の人が「廃棄処分するなら、助成金がでる」とアドバイスしてくれるんだけど、キャンディにシングルペアレンツの支援や助成金をアドバイスしてくれる人はどこにもいないことでした。これは、監督が意図して描いていることですよね?
ラム・サム ええ。その通りです。社会に対して批判というわけではないのですが、すごく不満を持っていたんです。なぜかというと、実際にはシングルペアレンツに対しての援助支援があるんですよ。多分。
──多分?
ラム・サム 経済的に厳しいシングルマザーに援助はあるのかもしれないのですが、そういうシステムを受けるためには条件にいろいろ制限があり、書類上の事務手続きも複雑で、実際に利用している人は多くないかもしれません。ひとつのポイントとして、市民から政府の支援が見えにくい、そして、すぐに助けてくれるシステムになっていない。そういうことを描きたいと思って、今、ご指摘されたような描写をストーリーに入れ込みました。
要するに、生活に苦しんでいる人々を助けて、手を伸ばすような制度があるのかもしれないが、肝心の貧困者にはそれが見えていない。それは、社会の問題かもしれないし、システム上の問題なのかもしれない。そういう状態の中で一番大事なのは、人と人が触れ合い、助け合うこと。まさに、この映画のザクとキャンディみたいな関係性です。お互いに助け合うことを描きたかったんです。
恋愛関係だから助ける、というのではない。困っているから助ける。(ラム・サム)
監督が気に入っているという場面より。人がいなくなった香港を象徴する風景として、今回はブルートーンの利いた色彩設計に。
──私は妹が香港の大学に留学し、卒業後も働いていたので、1990年代は何度も通っていたのですが、その時の体験として、香港の人はおせっかいって思うくらい人情深く、助けてくれることがあって、そういう下地を知っているから、今回の映画のザクとキャンディの、助け合うけど恋愛に発展しないところがすごくいいなって思って見ていたのですが、アンジェラさんはどう感じられましたか?
アンジェラ・ユン 劇中で見られたザクとキャンディの関係というのは、監督とザク役のルイス・チョンさんと私と色々、脚本について話し合っての結果になっていると思います。実は、撮影の時は、二人の関係性がもうちょっと近くなるという場面も撮っていたんですけど、監督から「ここは編集の段階で使わなくなるかもしれない」と聞いていました。そこは監督の解釈ですよね。そこまでのラブストーリーにしようと思っていないので、見せる必要もないじゃないかと。
ルイスさんとしては、最初、恋愛関係から助けるという解釈で演じているんですが、最終的にそうじゃないという風に編集したのはやっぱり、監督の考え方じゃないかなと私は思っています。
──監督は、いつも俳優さんの生理を大切にして、話し合いで俳優さんがこう表現したいという領域に委ねる部分が多いのですか。
ラム・サム そうですね。自分一人の監督作としてはこの『星くずの片隅で』がデビュー作になるということもあって、経験が少ないということもありますけどやっぱり、俳優さんの気持ちや意見を大事にしようと思っていました。ルイスさんともコミュニケーションしながら、どうすればいいのか、すごく考えましたね。ルイスさんの意見も大切にしましたし、話し合いから新しいものが生まれてくる可能性もあります。自分にとっては、新しい色は大切にしたい部分です。
──ザク役のルイス・チョンさんは不良性もあって、ミドルエイジの色気が凄くある方ですが、監督は、演出に力が入った場面はどこですか?
ラム・サム そうですね、演出は先ほども言ったように、3人の話し合いで決めていったことが多かったです。僕とアンジェラとルイスさんだと、彼が一番、経験が多いので、彼からの提案もいろいろあったんですけど、でも、だからといって彼の意見ばかりを優先させてはいけないところもある。みんな同じ立場として、いいサジェエスチョンを頂きました。
で、アンジェラが言っていたように、ルイスさんとしては、ザクとキャンディの関係性はラブストーリーの色合いをもっと見せた方がいいんじゃないかと言っていたんです。まあ、その意見を受け入れて、撮影はやってみたんですけど、僕としてはやっぱり何か違う。なので、 最終的に僕の解釈を受け入れてもらいました。
ネットカフェでセクハラを受ける場面では演技を忘れて泣きたくなった(アンジェラ・ユン)
──清掃業が、オフィスの業務が終わった後に行われることが多いので、夜のシーンがすごく多いですね。実際のストリートで撮っている場面も多く、なおかつ、コロナ禍出の撮影でご苦労も多かったと思うのですが、お二人の心に残っているエピソードを教えてください。
アンジェラ・ユン 夜の香港がすごく印象に残っています。コロナ禍だったので町がゴーストタウンのようになっていて、すごく寂しい風景になっていました。いろいろ制限があって、店も道も閉鎖されてしまって。私、バレーボールをやっているのですが、練習後、お腹がすいて、お店を探そうとしてもなくて、大変だったんです。(日本語で)すごく、さびしかった。
撮影中のエピソードで、自分にとっていちばん印象深い場面は、深夜、インターネットカフェで働いている場面でした。あの場面を昼間に撮っていたら、あそこまでの感情は出せなかったんじゃないかなと思っています。キャンディはあの場所で、男性客からセクシャルハラスメントの発言を受けるんですけど、実際に働いている人にも日常的に起こりえる出来事だそうで、役を通して実際に体験すると、怒りが込みあがってきました。悲しくもなるし、演技を忘れて、本当に泣きたくもなった。
でも、監督とルイスさんに、「泣くとしたらこの次のシーンだから」と言われて何とかこらえました。二人にそう言われていなかったら、我慢してなかったと思う。ただ、感情として、あの日はすごく複雑なものを出せたんじゃないかと思います。
──アンジェラさんはこのキャンディ役の演技で、2023年度の香港アカデミー賞(金像奨)最優秀主演女優賞にノミネートされました。シルビア・チャンさん、サミー・チェンさんといったベテランの方と並んでのノミネートは素晴らしいことだと思いますが、感想は?
アンジェラ・ユン この『星くずの片隅で』から10か月後に、私はエリック・ツァン・ヒンウェン(曾慶宏)監督の『過時過節』(大阪アジアン映画祭では『香港ファミリー』のタイトルで上映)という作品でシルビア・チャンさんと共演したんです。シルビアさんは大先輩で、彼女と比べると私なんて何者って感じなんですけど、金像奨で一緒にノミネートされたことはすごくびっくりもしたし、嬉しいことでした。
ミッシェル・ヨーさんのオスカー受賞には大泣きした。自分も頑張れば可能性があると見えたから。(アンジェラ・ユン)
──賞がらみの話をもう一問。今年、アメリカのアカデミー賞の最優秀主演女優賞は、1990年代に香港映画界で大活躍されていたミッシェル・ヨーさんがアジア人としては初の栄誉に輝かいましたが、その件についてアンジェラさんはどう感じられましたか?
アンジェラ・ユン 授賞式をテレビで見て大泣きました。それはドリーム・カム・トゥルーというところで。私もここ数年、海外の映画からキャスティングのオファーが結構増えてきていて、オーディションの最終候補に残ることが多くなってきました。
そんなタイミングで、ミッシェルさんのアカデミー賞受賞の報が入ってきて、だからこそ、すごく感動したんです。自分も頑張ればそういう可能性があるということがわかったから。ミッシェルさんは今60代で、私は今30歳。彼女がたどり着いた先までまだ30年あるので、あきらめずに頑張りたいと思います。
『星くずの片隅で』は香港のある時代を反映した作品になった(ラム・サム)
観光地としての香港の夜景を描いた作品は数多いけれど、今作は光のひとつひとつに市民の生活が反映されている。
──最後の質問になりますが、ラム・サム監督の『星くずの片隅で』を見て、今やすっかり中国映画界を代表する大監督になってしまいましたが、ピーター・チャン監督の初期の頃の『月夜の願い 新難兄難弟』(1993)や『ラブソング 甜蜜蜜』(1996)を思い出しました。
それは香港市民にそっと寄り添う目線ということにおいてなのですが、監督自身が目標とされている監督はいますか?(と、質問を聞いて、アンジェラさんが即座に、『ラブソング』のテーマソングであるテレサ・テンの『甜蜜蜜』を歌ってくれました)
ラム・サム そうですね、僕も『ラブソング』は大好きな作品です。それは、その時代を描いていること、そして都会の中に生きている小さな物語を描いていること。今回、この映画もひとつ、時代を反映した作品になったと思っています。それは、コロナ禍の時代の香港を描いたこと。朗らかに生きる人の話であることも共通するところだと思います。
僕が自身で最も気に入っている場面は、ザクがキャンディと娘のジューと3人で香港の街を見下ろすところです。ビルから見下ろすと手前に小さな路地があって、コロナ禍で誰もいなくなって、静かで寂しくて。あの香港の街の夜は、自分でもよくぞ、映画の中に切り取って収めることが出来たと思っています。
星くずの片隅で
2019年の香港民主化デモを背景に描いた青春群像劇『少年たちの時代革命』(2021)で共同監督を務めた新鋭ラム・サムが単独でメガホンをとったデビュー作。コロナ禍の香港の片隅で、自分たちの存在はちりのようなものだと自嘲する清掃業者のザク。彼のもとに半ば強引に押しかけてきたキャンディは幼い娘を抱えながらも明るく、前向きだが、苦労した分、嘘やズル、万引きが身に付き、その度にザクを窮地に立たせる。目の前で困っている人をどこまで支えるか、見る者に優しく問いかける作品。
器用で実直なザクを、香港の人気シンガーソングライターで、映画やドラマではコメディ俳優として定評のあるルイス・チョンが演じている。香港アカデミー賞10部門ノミネート作品。
原題:窄路微塵
英題:The Narrow Road
出演:ルイス・チョン(張繼聰) アンジェラ・ユン(袁澧林)
パトラ・アウ(區嘉雯) トン・オンナー(董安娜)
監督:ラム・サム(林森)
プロデューサー:マニー・マン (文佩卿)
脚本:フィアン・チョン (鍾柱鋒) 撮影:メテオ・チョン (流星) 美術:ウミ・ンガイ(魏鳳美)
編集:エミリー・リョン (梁汶姍) 音楽:ウォン・ヒンヤン(黃衍仁)
日本語字幕:最上麻衣子
配給:cinema drifters・大福・ポレポレ東中野
2022|香港|カラー|DCP|5.1ch|115分
(C)mm2 Studios Hong Kong
★TOHOシネマズシャンテ、ポレポレ東中野他全国順次公開
VIDEO
『星くずの片隅で』公式サイト
撮影/杉⼭美沙