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水俣病密着15年の映画『水俣曼荼羅』、原一男監督に超ロングインタビュー【MOMAで全作品上映の鬼才】

  • 金原由佳

2021.12.17

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水俣病を自分の問題にしていこうと考え、15年間、カメラを回し続けた。行政がほったらかしにしている現状がどんな影響を及ぼすか、見て欲しい。

2021年を締めくくるにふさわしい作品と出会いました。原一男監督によるドキュメンタリー『水俣曼荼羅』です。途中休憩2回を挟んだ6時間余りの作品で、何故、水俣病問題が解決されないのかを、原監督が15年間を追い続けたものです。でも、この6時間の長さが紫電一閃、なんというか浦島太郎的と言いますか、原監督のマジカルな時空間の伝え方に驚愕する内容です。

去る夏に、ジョニー・デップが自らの製作会社インフィニタム・ニヒルで製作した『MINAMATA』で、1970年代の水俣病患者の戦いを描きました。あれから50年以上の月日が経つのに、水俣病の問題はまだまだ解決に程遠いと言います。その「なぜ?」という部分に、15年間、追い続けた原監督にお話を聞きました。

水俣病とは、メチル水銀化合物(有機水銀)による中毒性中枢神経系疾患のうち、化学工場などから環境に排出された同物質によって汚染された海産物をヒトが経口摂取したことにより集団発生した公害病のこととされてきましたが、最近の研究では、脳の五感を司る部位に重大なダメージを与えていることがわかってきました。

映画には、当事者の患者の人たちと家族、その患者を支援する弁護士チームや、支援団体の人、そして水俣病とはどういう病気なのか、症例データをこつこつと集める医師など様々な立場の人が登場し、その人たちの行政とのやり取りも赤裸々にカメラに写されています。意外にも、映画の中で笑いが多いのは、監督と被写体の人たちのやり取りが明るいからで、その日常から零れ落ちる様々な感情を知ろう、つかもうとする原監督のエネルギーが見ている間に、充満してくる作風です。できる限り、一人でも多くの人に見て欲しい作品です。

 

監督●原一男(Kazuo Hara)
1945年、山口県宇部市出身。 1972年、小林佐智子と共に疾走プロダクションを設立。同年、CP(脳性小児麻痺)者の団体“青い芝”との共同製作で、身障者たちの生活と思想をとらえたドキュメンタリー『さようならCP』で監督デビュー。1974年には子どもを連れて沖縄へ旅立った元同棲相手を追って、自力出産を含む彼女の生き様をカメラに収めた16ミリのドキュメンタリー『極私的エロス・恋歌 1974』を発表。 1987年、アグレッシブに天皇の戦争責任を追及し続けるアナーキスト・奥崎謙三の活動を追った『ゆきゆきて、神軍』が大ヒットを記録し、世界的に高い評価を得る。1994年に癌と闘病中の作家、井上光晴の〈虚構と現実〉を追った『全身小説家』を発表し、 2005年には初の劇映画『またの日の知華』を監督。 2017年に『ニッポン国 VS 泉南石綿村』を発表。 2019年 、ニューヨーク近代美術館MoMA にて、全作品が特集上映された。 同年、風狂映画舎を設立し、『れいわ一揆』を発表。 2020年、 『水俣曼荼羅』を完成させた。

面白いものを作らないと誰も見てくれない。この映画に登場する人たちは私たちを喜んで迎え入れてくれた人たち

──『水俣曼荼羅』は公害問題という重い題材を扱っている作品ですが、原一男監督と、この作品に登場される被写体の方々とのやり取りが日常の延長線上の会話として飄々としていて、軽快で、こんな言葉を使って適切かわからないのですが、6時間余りの鑑賞時間中、ずっと面白かったのです。ただ、これを面白かったと言っていいんでしょうか?

「はい、“面白かった”というのは最高の褒め言葉で、一番ほっとする言葉ですね。というのも、面白いものを作らないと誰も見てくれないですから。そのことをずっと自分に言い聞かせながら撮影しています」

──映画に出てくる人、皆さんから素顔の日常が見え、普段の顔がいっぱい出てくる。みなさん、直面しているのはシリアスな問題ですけど、原監督のすごさは、私たちと同じ地平線沿いの日常を見せていることです。どうしてそんなことができるんでしょう?

「私にできると言うよりは、相手の人がそういうキャラクターだったっていう、まあ出会いですよね。そういう人たちだから、私たちに付き合ってくれたんだなって思うんですよ。

やっぱり映画ってね、相手が乗ってくれないとカメラって回らない。私たちに会うのが嫌だ、嫌だと思ってる人にカメラを向けて、ごめんくださいと言っても面白いインタビューになるはずがないじゃないですか。だから、今回の映画に登場する人たちは、まあまあ、私たちを喜んで迎え入れてくれた人達ってことになります」

水俣病の問題を追うことを最初は迷った。

──原監督は『ニッポン国VS泉南石綿村』(2017)というドキュメンタリーで、大阪・泉南地域の石綿(アスベスト)工場で働いていた元従業員の方たちとその家族が、国が70年前からアスベストによる健康被害に気づいておきながらアナウンスしなかったことへの訴訟問題を追っています。この流れで、次は水俣病問題もカメラで追わなければと決意されたんでしょうか?

「いや、全然別のところから、水俣を追ってみませんかと誘われたのが最初で。それはアスベスト問題の時もそうだったんです。大阪のアスベストの訴訟は2010年から追って作品にしましたが、水俣病は15年撮影して、編集にも倍の時間がかかっています。

水俣病の問題を取り上げることに、実は最初、迷ったんです。ひとつは後でまた話しますけど、土本典昭さんという45年間も水俣病を追い続けたドキュメンタリーの大先輩がいること。それでも一回、案内してくれる人がいて、現地に行ってみたら、その人が“水俣病の問題というのはまだ全然終わってないんだ。国も、熊本県も、行政が本質的な解決を一切やろうとしないんだ”と説明してくれて、これは一体どういうことかと。

それで2004年、熊本、鹿児島両県から関西に移り住んだ水俣病の未認定患者45人(うち死亡15人)と遺族が、国と熊本県を訴訟した最高裁判決の日からカメラを回し始めたんです」

2004年10月15日の午後3時、最高裁判所第二小法廷は、水俣病関西訴訟の上告審で、「国と県が被害の拡大を防がなかったのは著しく合理性を欠き違法」と国と県に賠償を命じた。カメラが回り出した最初の日。

 

──この判決は患者と遺族の方たちの勝訴となります。判決の内容としては、「国は1959年12月末には、チッソの工場排水について旧水質二法による規制制限を行使すべきであったこと。国が1960年1月以降、規制制限を行使せず被害を拡大させたのは、著しく合理性を欠き違法であると示したこと。熊本県も国と同様の認識を持ち、漁業調整規則で規制制限を行使する義務があった」というものでした。

この判決を聞いて、原監督としてはここから水俣病問題が明るい方向へ行くぞという感触だったのでしょうか?

「明るいとか、そういうことじゃなくて、その当時、水俣病問題はなんとなくもう終わったんじゃないかっていう空気が日本で蔓延していて、理由もなく私自身もそう思っていたんです。水俣病問題への支援運動っていうのは、1970年代、4大公害病において日本で1番トップを走っているという言い方があってるかどうかはわかりませんが、とにかく最もポピュラーだったはずなんですよ。全国からマスコミやジャーナリストや学生が水俣に来て、支援運動に参加していた。

だから、全国的に水俣病に関心があるっていう人はまだまだ日本には多くいるはずなんですよね。ところが、2004年当時、水俣病問題の運動はなんとなくもう終わったかのようなイメージが漂っていて、皆さん沈黙していらっしゃいました。これが、今年、2021年、ジョニー・デップが水俣病を追った報道写真家のユージン・スミスに扮して、映画『MINAMATA/水俣』を作ったということで、ようやく国際的にまた話題となった」



子供の頃は元気だった人たちが、年齢を重ねてから発病する

「水俣病関西訴訟最高裁判決」を受けて、会見する小池百合子環境大臣(当時)

──仰るように、ジョニー・デップが自らの制作会社で映画化し、主演をした『MINAMATA/水俣』が2021年に日本で公開されました。

あの作品は、1973(昭和48)年3月20日、熊本地裁判決で、チッソの法的責任を明確に認め、水俣病患者に賠償責任を認めた熊本判決で終わりますが、実際にはあれで水俣病患者がみな救済されたわけではなく、あれから50年近く経つのに、未だ患者の方たちによる訴訟が続いていることを『水俣曼荼羅』では明らかにしていきます。

「1970年代でチッソの責任を問うた水俣病患者の方たちの多くは劇症型水俣病なんですね。私が撮影を始めたときは、劇症型のおじいさん、おばあさん世代の人たちはほぼ亡くなっていて、その子供世代の人たちが不調を訴えている時期でしたが、この世代の特徴としては、子供時代は元気なんですよ。

でも、年齢を重ねるごとに体力が弱ってきて、大人になって内在していた水俣病の症状が出てきて、日常生活に支障が出てくる。これもまた水俣病じゃないかと訴える人の数が一年ごとにどんどん増えている時期だったんですけど、行政が、劇症型水俣病の厳しい条件に当てはまる人しか水俣病と認めないので、不調に苦しむ人が放置されている状態だった。

そういう事実をリアルに私は知ることになるんですよね。この状況をドキュメンタリーとして撮っている人が居ることは居る。でも、土本さんのように何年も腰を据えてなんとかしてやろうという人がどうもいない。じゃあ、どうしようかという時に、やっぱり問題意識を持った人が撮るのが1番だ、となると私が自分でやるしかないのかなという方向へ向かい、水俣病を自分の問題にしておこうと少しずつシフトしていった感じなんです」

──『水俣曼荼羅』は三部構成となっています。第一部「「病像論」を糺す」では、先程話に出た2004年10月の関西訴訟の勝訴の判決が出る場面から始まります。その後、被告側と原告側が対面するのですが、原告側の患者とその支援の方々はとにかく、長年水俣病と認めなかったことに対して謝って欲しいと要求し、感情があふれ出るのですが、行政側は感情的な顔を見せたら負けと言うぐらい、仮面を外さない。

当時、環境大臣だった小池百合子氏も、環境庁の人も、熊本県の県職員の人も水俣病患者の方々の苦境に思いを寄せる心はあるはずですが、最後まで個の感情は出さない。原監督がずっとカメラで追いかけている時に、一瞬でも彼らの中から、水俣病患者への共感やシンパシーが現れ出た瞬間はあったんでしょうか?

「これはどう評価するかがなかなか難しい問題ですけどね。例えば後半、熊本県職員の若い課長が、自分の書類のメモに“謝らない”としたためたものを、原告側の人に見つかって、そのメモをとられる場面があります。彼は何かの問題で患者から問い詰められたら、自分は何と答えるかということのメモとして、“この問題に関しては謝らない”と書いていた。それが目ざとく見つけられて、“なんだ、そのメモは”と追及されて、若いから思わずカッとなってしまった。

行政側の人の感情の出方って、やっぱり、原告側から追及されて、カーッとなるリアクションのときだけですね。最終的に、当時、熊本県知事だった蒲島郁夫さんが登場します。彼はその前の判決では、自分の選挙活動を優先して、原告の人の前に出てこなかった。その前科があるから、判決の後、出てきたんですけど、最初は神妙な面持ちじゃないですか。でも、あのシーンを撮りながら、私も本当にびっくりしたんだけど、蒲島さんって学者然とした人で、東京大学大学院法学政治学研究科の教授もやったことがある人ですから、私は行政に役立たせるというようなことを判断が出来る人だと勝手にイメージを持っていたのです。

ところが、あの対面の場に行ったら、患者さんたちの追求に“ 法廷受託事務執行者”という言葉を繰り返すだけ。私はその言葉にびっくりして、劇中、同じ文字を二度テロップで入れましたけど、それを聞いたときに、ここまで対話をしないのかといや、びっくりしました。あそこは、蒲島さんの行政側の人間としての感情が、ああいう形で抑えようとしても出てきたのだと感じました。そこで思わず出した言葉の中に、その人のキャラクターが出てきちゃうと思いましたね」

行政と患者の数少ない対面の場

熊本県の姿勢に抗議をする原告の人々

──判決の後には、必ず、行政と患者さんの対面の場が設けられるんですね? 逆に言うと、判決の後にしか、ああいう直接に対峙できる場所はないと言えるんでしょうか?

「ええ、判決後には原告の患者さんたちと行政側との交渉の場は必ず設けられます。それ自体ひとつの慣習みたいなもので、行政の人は弁解するのが自分たちの役割みたいなパターンになっている。患者さんの方はここぞとばかりに怒りをぶちまけるんですけど、行政側はそれに対して絶対に怒らないし、本音は言わない。おそらく言質を取られるとまずいので、絶対本心は言わないと。ひたすら謝って嵐が過ぎるのを待っている」

──患者さん側にしてみたら、日頃言えない鬱憤を直接ぶつけることを許される場所の唯一の場所なんですよね?

「客観的に見ると、患者さんのほうが絶対にその数は多いし、圧倒的に強い言葉をぶつけていて、一瞬、患者側の方が、立場が有利みたいに見えるんですけど、でも、それは最初からそういう役割がお互いにわかって、やっていることでもある。

映画として、1つのシーンを作る側の人間にとっては、こういうパターン化したやりとりはあんまり好きじゃないなあと思うものの、それでもあの場でしかぶちまけられない患者の人たち気持ちがあり、それはやはり記録する人間として撮影しておかねばならない。私の中には葛藤がありますが、ああいう場でしか、患者と行政とのやり取りはないので、撮影に臨むんです」

水俣病運動のシンボルである坂本しのぶさんが流した涙のわけ

胎児性水俣病患者の坂本しのぶさん。2017年にはスイス・ジュネーブでの水俣条約の第1回締約国会議(COP1)でもスピーチをした

──その会見の場で、胎児性水俣病患者の坂本しのぶさんがマイクでご意見を述べている姿を見ました。坂本しのぶさんは石牟礼道子さんの「花帽子」というエッセイに登場されますし、ユージン・スミス、アイリーン・美緒子・スミスの写真集「MINAMATA」でも登場されます。

どちらの本でも、胎児性水俣病患者ということで、本来、人として得るはずだった様々な権利、その中には恋や結婚も入っているのですが、それを奪われた女性という怒りや共感が込められた紹介だったと思います。一方、『水俣曼荼羅』の第三部「悶え神」で、原監督は坂本さんの素顔に迫って、いわゆる普通の恋バナを楽しくされていて、しのぶさんの柔らかい部分に触れて、ほっとしました。

「はい、坂本しのぶさんは水俣病運動のシンボルという扱いなんですよ。ご本人もそのことは自覚していて、公の場に出ると自分も何か言わなきゃいけないっていう責任感から、行政に対して一言物申すみたいな発言をされるんですね。実際は言葉を発するのは大変で、おしゃべりな人じゃないんですけど、自分の役割を果たさなきゃって、やっぱり使命感があるんだろうと思うんです。

しのぶさんは、土本さんの『わが街わが青春 石川さゆり水俣熱唱』(1978)にも登場するんですけど、確かまだ20代の頃だったと思います。その中で、しのぶさんが土本さんに20代特有の悩みといいますか、今後どういう生き方をしたらいいんだろうかって切々と訴えているというシーンがあるんですよ。訴えたからといって解決するわけでもなく、しのぶさんの悩みは映画の中でずっと続いていく。

私としては、その後、しのぶさんはどういう人生を歩んできたのかとずっと気になっていたのですが、水俣に行って撮影をすると、いろんな方からしのぶさんは恋多き女性だと聞くんです。それはすごく有名なエピソードだと聞いたのですが、それを知ったとしても、簡単に“じゃあ、インタビューを申し入れましょうか”となるとそうはいかない。私としても坂本しのぶさんという方を取材するからには、どういう風に描くことが可能か、きちんと検討して、描けるイメージをもたないとインタビューをさせてくださいなんて、なかなか言えないですよ。それで機会を3年待ちました」

──実際、インタビューすることになった直接のきっかけは何だったんですか?

「2008年2月24日に第1回もやい音楽祭というのが開催されて、しのぶさんの詩が優秀賞をとり、それに曲をつけて、披露されたんですね。その発表会を取材したとき、ステージでしのぶさんの目尻がキラッと光ったんです。あ、涙かなと思ったので、その後、ご本人に、“しのぶさん、涙に見えたんですけど”と話をふったら、“目の前に好きな人がおったので”と予想もしない言葉が返ってきたんです。

これはいいチャンスだと、しのぶさんは恋を多くしてきたと我々は聞いてるけど、一緒に昔、好きだった人のところに訪ねて行って思い出話をしませんかと提案して見たら、ご本人が“やります”と言ってくれたんですね。聞くと、20人いるという。でも、映画にあるように、結局、3人の方としか会えなかったんです。というのも、しのぶさんは忙しい人なんです。日常的に地元の小学校や中学校から訪問授業に来て欲しいと依頼があったり、習い事もしているし、定期的に病院にも通わなければならない。

何より、ご本人の体調と気分の問題もあるんです。この日は気分が乗ってるから行こうという日もあれば、この日は気分が乗らないか嫌だとか。映画の中ではぽんぽんぽんと3人の方が出てくるので近い日付に見えますけど、実際には一年にお一人としか撮影ができなかったんです。で、話はもどりますが、そのもやい音楽祭で受賞したしのぶさんの詩の中にかなり過激な内容の言葉があるんですね」

歌詞に込められた当事者の心情

 

──そこは映画を見ていて、聞き逃していました。どのような内容の詩だったのでしょうか?

「ポイントは2つあります。水俣病運動というのは1970年代、運動を引っ張っていく、カリスマ性を持った人が何人かいるんですよね。その人たちのパワーにひかれて、70年代の運動が盛り上がってる頃に“よし、自分も水俣に腰を据えて、水俣病の運動に加わるぞ”と学生運動の延長でそのまま住み着いて30年、40年経っているうちに、患者さん以上に、支援の人たちがリーダーになっていうケースが実は多い。

それで坂本さんの詞の内容に戻りますけれど、その中に“自分は支援の人の言いなりだった”という歌詞が出てくるんです。で、もう1つのポイントとして、“1人でアパートを借りて、自立して暮らしたかった”という言葉も出てくるんです。その2つの内容は、水俣病運動そのものに批判を含んでるような内容で、やはり過激なんですよね」

 

──公人としてマスメディアの場に出てくることが多かったしのぶさんのはからずも、プライベートな本音が出てきた言葉だったんですね。

「私たちの映画では、しのぶさんの好きだった人を訪ねる旅をセンチメンタルジャーニーと言いましたけど、自立して、アパートを借りて、1人暮らしをしてみたかったという本音に対して、しのぶさんのお母さんに聞いてみたんですよね。あの詩の内容をどう思いますかと。自立したいという気持ちをお母さんとしてはどう思うんですかと。お母さんは、これは障害者を持った親の常で、やっぱり心配で仕方がない。この子は1人でやっていけるのかしら、いや、やっていけない、無理だと判断をするんですよね。それで、家族でなんとかこの子の面倒をみよう、きょうだいでみようとなる。

私は障害者問題に接する機会が多いんですけど、たとえ重度であっても、自立したいっていう人は結構の数、いるんです。障害者運動においては重度の人が自立宣言をして、ネットを通してボランティアを集めて、サポート体制のローテーションを組んで、1人暮らしをしてるっていうケースはいくつかあるんですよね」

障害者の自立と水俣病

──人工呼吸器をつけての自立生活を送る人たちの生活を追ったドキュメンタリー『風は生きよという』(2015/宍戸大裕監督)や、筋ジストロフィーにかかった主人公がボランティアスタッフと暮らす劇映画『こんな夜更けにバナナかよ』(2018/前田哲監督)がまさに重い障害を抱えながらも自立を実践した姿を収めたものでした。

「そういう障害者の自立という流れがある中で見ると、水俣病の世界では、残念ながら、親がこの子を守らなければという愛情が強すぎる現実があって。母親が蓄積したメチル水銀を胎内で赤ちゃんが吸収してくれたという複雑な感情があるからなんですよね。そういう親の思いもあって、現状を打ち破ってしのぶさんが自立するという可能性は空気として無いんですよね。

本人が自立するよりも、ボランティアをうまく組織して、終の棲家的な場所を作って、そこで生涯を終えていくというようなことを何とかできないかと模索してる人はいるわけですが」

──なるほど、今のお話と関連するのですが、しのぶさんがかつて恋した男性たちと会って話をするとき、それぞれの男性との間に共通の思い出がたくさんあって、好きな歌をふたりで歌ったり、共有されている楽しい時間がたくさんあるんですね。それはとても素敵な関係性であるんだけれど、男性たちからは大切に、大切にケアされていて、本当の意味での傷つき、衝突するような恋ではない。人として、しのぶさんにもずたぼろになるような恋をする体験があったはずなのに、それを奪ってしまっていることが水俣病の残酷な一面だと思いました。

「恋の話ですから、しのぶさんから弾むような感覚も出てくるんですけど、しのぶさんのエピソードの裏側にはシリアスな問題が横たわっているってことはちょっと考えればすぐわかることですよね。だけども映画の表現として、私はしのぶさんに突っ込んで、いろいろ聞かなきゃいけないことがあるんだよなぁと思いながらも、あれ以上は聞けませんでした。映画を作り終えた今でも、あの時、もっと突っ込んで聞いて良かったのかどうか。未だに悔いとして残っているって感じがあります。

しのぶさんにとって、好きになる男性というのは、水俣の外部から来る人たちなんです。外部から来る人というのはしのぶさんにとっては未知の世界を持った人なんですよね。だから好きになる。人を好きなるというのは、一体の体になるという幻想を持たせてくれるのが恋愛感情じゃないですか。

昔、吉本隆明さんが男女関係としての対幻想を唱えましたが、しのぶさんにとって男の人を好きになるってことは、その人との生活を夢見るというイメージを持つ間だけ自由なんですよね。つまり、自分を縛っている胎児性水俣病という病気から逃れることができる。だから本当に切ないんだけども、人を好きになることはしのぶさんにとっては自由であるっていうことは、同時に“まさに生きている”っていう実感が持てる場でもあるわけじゃないですか。だから泣けるんです。作り手としてはカメラで写されている出来事の裏側をよんでほしいなと思うとことです」

なぜ、病気として、障害として認められないのか

胎児性水俣病患者の生駒さん

──『水俣曼荼羅』の第二部「時の集積」に話を戻しますが、生駒さんという小児性水俣病患者さんが、仕事や日常を送る上で体の自由があまり聞かず、様々な局面で支障をきたしている様子をカメラが記録しています。ほかにも、顔や指先にかなり強い力で圧をかけても、感覚がマヒして、それがわからない人が紹介されます。

不思議なのは、2016年に障害者差別解消法が施行され、例えば第3条の基本的理念として「すべて障害者は個人の尊厳が重んぜられ、その尊厳にふさわしい処遇を保障される権利を有するものとする」と掲げられているのにもかかわらず、水俣で明らかに様々な障害や、困り感を抱えている人達に対し、国や熊本県から水俣病と認められず、合理的配慮を受けられていないという状況です。

「1946年に日本窒素がアセトアルデヒド、酢酸工場の排水を無処理で水俣湾へ排出してから70年近く経っているんですね。その間、結局、権力を持ってる人、行政が、本質的に水俣病問題を解決しようとしない。その環境の中で生きてる人たちにとっては、いびつな感情というものを発生せざるを得ないんじゃないかなって思います。

そういう意味で、政治って本当に大事だなと思いますね。真っ当な政治が行われない所に暮らしていると、人と人の心の中の感覚や、発想、価値観がいびつになっていくんだろうという感覚を私は持ちました。だから本作の中でどんな風にその人の心の中に行政や政治のほったらかしの姿勢が、個々の人たちにどんな影響を与えているかというのを、とにかく丁寧に見ていこうと思ってたんですよね」

カメラの裏側で状況の矛盾を色々感じることはあるが、傍観者の立場です

熊本大学医学部の二宮正先生 水俣病患者の失われた感覚について話している際に、感情がこみ上げる

──私がびっくりしたのが、そもそも「水俣病とはなんぞや」という定義が劇症型水俣病だけで、他の症状に対して行政がずっと無視し続けていて、追加調査も、人数の把握もしていないことでした。第1部「病像論を糾す」では熊本大学医学部の浴野成生教授が「中枢神経である脳が障害されると患者本人が症状を自覚できない」と話され、各地域に行ってコツコツとデータを集められている姿が映されています。

その過程で、生駒さんも検査を受けることになるのだけれど、途中で、検査によって改めて水俣病の症状を見直されることで、今まで認定されていた保証が覆されるのではないかと不安になって、検査を途中で打ち切ってしまう姿も紹介されます。みなさん、生駒さんを助けようと動いているのに、個人を追い詰めてしまう結果となってしまった。原監督としては、ああいう状況の変化を記録されているときに、「これはおかしいよ、検査は受けた方がいいよ」という助言はされるんでしょうか?

 

「いえ、傍観者の立場です。いちいち声を大にしてね、私が目の前の相手にどう思っているかということは、やっぱり発言しないですね。そういう状況をそのまま見る側に提供すると定義したものが、私の仕事だと思っているので。もちろん、カメラの裏側で、色々と矛盾を感じることはあります。そして、相手から、この状況をどう思うのかと発言を求められた時には言います。でも、その手の発言は言いにくいし、求められることもありません。

ただ、せめて映画を観た人が、“このとき、原さんはもやもやしながら、このシーンをカメラで作っているんだろうな”と読み解いて欲しいことが、今までのどの映画よりもたくさんある作品なんですね。それだけ水俣病の問題っていうのがシリアスな問題なんだよと言いたいです。

生駒さんは検査を受けることによって、自分の障害者としての等級が下げられ、行政からの手当の支給が減らされるのではないかと恐怖に思ったんですね。それは、ある宗教団体に所属している友達がそういう風に言ったらしいんです。それで検査から逃げてしまった。その直後、私はあんなに一生懸命運動していたのにと、絶望的に気持ちになりましたけど、時間をかけて考えていく中で、結局、本質的な解決がない限り、個人は追い込まれてしまうと思うに至りました。

生駒さんは自分の生活を守るためにああいう行動をとった。当事者以外は、責める資格はないですよね」

 

──先程の浴野先生や、同じく熊本大学医学部の二宮正先生が、今後、まだまだ、年齢を重ねるにつれ、水俣病の症状を発症させていく患者数がどんどん増加するだろうと話されています。それでも、まだ、国も熊本県も動かないでしょうか?

「今のところ、国は絶対に追加調査をしない。なぜそうなるかというと、水俣はとても狭いエリアなんですよ。水俣湾を含めた不知火海というのは九州本島と天草諸島に囲まれた内海で、水俣病が発症したとき、水俣市の人たちに注目が集まったんだけど、実は対岸の天草の人たちにも同じように深刻な症状を持った人たちがたくさんいたんです。

天草エリアの方々は水俣エリアの人たちより1テンポ、2テンポ遅れて注目されるようになったので、自分が水俣病であり、それに対する公的な支援を受けるということを隠すという雰囲気が、水俣エリアの人たちよりも色濃く残っているエリアなんですね。だから、どうしても表に出てくるそのスピードが遅れている。で、今やっと天草エリアの人たちが年齢を重ね、抱えている症状が重くなってきて、ようやく名乗りを上げだして、数が増えているという問題を含んでいるんです」

私の役割は次世代への中継ぎ

熊本大学医学部の浴野成生先生 水俣病患者が受けた脳へのダメージを追跡・調査している

 

──原監督はジャーナリストとして、ドキュメンタリー作家として、試写会のときに、「私の役割は次の世代の解決までの中継ぎである」と話されました。この映画では、水俣病問題を発信してきた人たちにも言及しています。

映画『MINAMATA』で取材をした時、ユージン・スミスのパートナーで、共に1970年代の熊本訴訟を記録し続けたアイリーン・美緒子・スミスさんが、当初、水俣に移り住んだとき、東京から来ていた宮本成美さんとアサヒグラフに掲載していた写真家の塩田武史さん、ユージン・スミスの写真展「写真こそわが友」の主宰者である元村和彦さんの協力が大きかったと話していました。

『水俣曼荼羅』では最初の方にお話が出た、土本典昭監督のドキュメンタリーを紹介されています。ただ、今回、色々調べたのですが、レンタルビデオ店や図書館で土本監督の映像素材を置いているところがかなり少なく、若い世代が簡単にアクセスするのは難しい状況のようで、水俣病問題を知らない世代にとってはこの『水俣曼荼羅』から入るという人が多くなりそうです。

「日本のドキュメンタリー史において土本さんが40年、50年近く取り組んだ功績は大きくて、水俣病に関する作品も15作品も撮っている。これは私のような後発の作り手としては、もう土本さんが既にやり尽くしたんじゃないか、不利だって迷ったんです。しかも私は肝心の土本さんと険悪な仲だったんですよ」

──え、そうなのですか。

「年度を忘れましたけどパリだったか、アムステルダムの国際映画祭で日本のドキュメンタリーの特集があり、土本さんと私はゲストで呼ばれたんです。そこで仲良くなって、日本でもこういうシンポジウムのようなものをこうやりたいですね。やろうやろうと話が盛り上がったんです。

早速、日本に戻ってアテネフランセから承諾をとり、準備に入ったんです。私としては構想が膨らんでいって、土本さんの作品も紹介したいし、小川プロダクションの作品も紹介したい。あの頃はドキュメンタリーとフィクションのボーダーを越えるという問題意識が私にも、日本のドキュメンタリーをやっている人間でも一般的な問題意識としてあったので、劇映画でドキュメンタリーを撮っている監督もいれたいと考えたんです。例えば今村昌平さんの『人間蒸発』(1967)や、大島渚さんの『忘れられた皇軍』(1963)、篠田正浩さんは『札幌オリンピック』(1972)、新藤兼人さんも『ある映画監督の生涯 溝口健二の記録』(1975)や『ドキュメント8.6』(1977)など撮っている。

それから、テレビからは田原総一朗さんを呼んだら面白いなと、どんどん企画が濃くなっていったんですね。それで、ある程度、形が固まってアテネフランセの会員向けにニュースを出したら、翌日、土本さんから電話がかかってきて、電話口で怒鳴って、ひどく怒っているんです。“俺は聞いていない”と。すごい剣幕で怒っているもんだから慌てて土本さんの自宅に行きまして平謝りに謝ったんですけど、ただ、謝りながら、私が企画して、全部準備をしている中で構想が膨らんでいったわけなのに、其れの何が悪いんだろう、むしろいいことではないかと釈然としない。その険悪な状態のまま別れて、それ以来、口も聞かないようになっちゃったんです。

とはいえ、『水俣曼荼羅』の冒頭の、関西訴訟の判決の場に土本さんもいらっしゃるわけです。挨拶したものかどうか、しばらく口もきかない期間があったんですけど、水俣を撮影するのに挨拶もしないというのはどうかなと、意を決し、連絡を取ったんですよ。ところが、既に時遅しで、土本さんはもう入院していて、奥様から“もう誰とも会わないんですよ”と聞き、それから間もなく亡くなられました。そういう軽薄な状態のまま、私が撮影に入っちゃったもんで、この度、ようやく20年もかかって、完成したでしょう。だから最後に、『土本典昭監督に捧ぐ』と文字を入れさせてもらおうと。それは仁義を切りそびれたというお詫びの意味を込めてなんです」

聴覚を失うとわかっていても、水の中で自分の目で確かめないと納得できなかった

左が潜水前の原一男監督。耳へのダメージを警告されたが、自分の目で確認したいと水中撮影を敢行

──原監督は、土本監督とは全く違うアプローチとして、水俣の海に潜るというアプローチをして、海中の中で今、何が起きているのかに迫っていきます。

水俣病の原因となった企業、チッソが長年、水銀を含む廃水を流してきた水俣湾の奥部にあった、水銀値の高い汚泥が溜まったエリアを鋼板で囲って埋め立てた水俣エコパークが今、どうなっているのかを映すわけですが、監督は元々耳に中耳炎があり、潜水をすると聴力を失うと医師から警告されての上で、潜られたと。

「絶対自分の目で見て、確かめないと納得できないですよ。私だけじゃなくて、ドキュメンタリーを撮っている人間なら、やっぱり海の中が今、どうなってるのかっていうのを確認しないと。水中撮影のプロに頼めばいいじゃないかという考え方もあるんでしょうけども、それがどんなにいい絵ですよって言われても納得しないだろうと思ったので。

自分で潜水のライセンスを取って、水中の撮影をものにするには100回潜って訓練をつまないとだめだと言われてそうしたんですけど、結果として、右耳はもうほとんど聞こえないです。耳の検査する度に、測定不能と出る。まあ、そうなってもしょうがないと思って覚悟して始めたんで、別に恨みに思ってるわけじゃないんだけど。けど、日常的にやっぱり聞こえないってことがやっぱり不便ではありますわね」

──それで実際に御覧になって、やっぱり鋼板の腐食はかなり進んでいるという実感をもたれましたか?

「映画の中で映ってたように、鋼板に化学変化を起こした物質がべたっとくっついているじゃないですか。あれ、鉄なんですよ。鉄板と海水だからやっぱり錆びるんですよ。間違いなく腐食は進んでいる。だから、あの化学変化を起こした物体を採集して、エコパークの元の長の人に見せたんだけど、“大丈夫です”としか言わないんですよね。

時間が経てば必ず大きな問題になって、表面化することなのに、なんか、みんなが触れないように触れないようにと、行政の姿勢が逃げてる感じします。本当になんなんでしょうね。事なかれ主義と言いますか。行政の人の独特の考え方がやっぱりあるんだろうなと思います」

石牟礼道子さんから出てきた「悶え神」という言葉の意味

1970年代から一貫して水俣病問題に積極的に関わり、運動を牽引した石牟礼道子さん。

──原監督は、水俣の患者に寄り添い続けた石牟礼道子さんにも会いに行っています。ときに患者の言葉にならない感情を文章化し、水俣の問題を語り続けてきた石牟礼さんに何を一番、聞きたかったですか?

「石牟礼さんは水俣病問題に取り組んだ最も著名な人ですけど、そういう著名人に会いに行って、インタビューすれば一本の作品として一丁上がりみたいなノリは嫌だったんで、実は避けようという意識が働いていたんですね。それで、現地に行く、石牟礼さんの悪口を言う人はいませんよって言いたいところなんだけど、実は、考え方が違うという人はいます。

それはなぜかというと、石牟礼さんの水俣病を、水俣病患者を語る言葉がどんどん神がかり的になっていくことに対して、本質的にそうなってはいけないと考える人も現実にはいるんです。外にいる人として、石牟礼さんの文学としての評価、特に「苦界浄土」を高く買ってる人はたくさんいて、盲目的に評価をする人が多い。だけど、水俣に行くと、必ずしも全員が全員、高い評価をしてるっていうわけじゃないんだなっていう空気を感じます。

我々も石牟礼さんに会いに行くかどうか、随分悩んだんです。それでも、映画を撮り終わる頃に、やっぱり石牟礼さんの考えを聞いておきたいなとようやく判断して、会いに行ったんです。もう、病気でお身体がかなり弱っていらっしゃる時期だったので、一回目は今日は無理だ、ちょっと調子が悪いと会えなかった。2回目に会いに行った時に、20分くらいだったらいいと。その20分しかお話は聞けなかったですけど、でも、会いに行って良かったなと思います。“悶え神”、悶えて加勢する、自分では何もできないから、せめて水俣の人々と嘆き、悲しみを共にする。悶え神という石牟礼さんの思想の中核にある言葉を直に聞けて、そこに深い意味がある。会ってよかったなと思いますね」

──原監督は、海中に流出するメチル水銀の問題は、水俣だけではなく、世界中の海の問題とも指摘されていますね。

「今の医師はデータを出して、妊娠した人はたくさんマグロを食っちゃいけないと言いますよね。というのも、全地球規模で、魚の体内に水銀が検出されているから。水銀とメチル水銀というのは毒性を持っているか、持っていないかで、成分が違うんですって。

水銀はもう地球規模で広く分布しているんだけど、その水銀がいつなにかのきっかけでメチル水銀化してもおかしくはない。そういう環境下で我々は暮らしてるのですから、水俣病の問題は九州の一地方の狭いエリアで起きている話じゃないんですね。特に脳がダメージを受ける、特に五感を司っている神経にダメージを与える。そのことから目をそらしてはいけないと思います」

民主主義が発揮されて、みんなで運動を血肉化し、リーダーを送り出さないと解決は遠い

──最後に20年間、取材を続けてきて、水俣病を解決するためには何が最も必要だと感じられましたか?

「2015年に「水銀による環境の汚染の防止に関する法律の概要」として、熊本・水俣で日本を議長国として開催された外交会議において、水銀に関する水俣条約(以下「水俣条約」)が採択されましたよね。水俣病の教訓も踏まえて、世界から水銀による被害をなくしていくため、水銀の人為的な排出及び放出から人の健康及び環境を保護することを目的として、水銀の掘採(採掘及び試掘)から貿易、使用、排出、放出、廃棄等に至るライフサイクル全体を包括的に規制するもの、とあります。

その問題においては、先程の世界の海とも関連して、国際的に注目は集まります。ところが、水俣病患者の人たちの問題となると、ダイレクトに自分たちの問題っていう風になかなかならない。水俣病の問題は自分達の問題と同じだと気がつくケースは、少しはあるんですけど、我が痛みとして受け止める事が出来る人っていうのは少しはいるようだけども、日本全体としては少ないんじゃないでしょうかね。だから、いい意味でも、悪い意味でも、水俣病患者の人たちと支援者は個別に頑張ってやっている。だから時間がかかるとしみじみ思いますね。

やっぱり何とかして団結しようじゃないかと。差別されていることを知っている人たちが集まって大きなエネルギーを組織化して行くってことをやらないと、本当に民主主義というものが発揮されない。日本の中で、なんとか運動を血肉化して行かなくちゃいけないんじゃないか。水俣に行くと、みんな、みんな個別で頑張っているんです。それと、ここまで何十年も問題が解決しないのは、やはり歴代の総理大臣が腹をくくって問題を直視しないこともあるとおもいます。だからやっぱり、選挙が大切なんですね。この問題を自分の代で解決するという一人のリーダーを私たちが国会に送り出さなくてはいけない。そういうことも、この映画を見て、感じていただけると嬉しいですね」

参考文献 「石牟礼道子全集 不知火」(藤原書店)
「MINAMATA」(W・ユージン・スミス、アイリーン・美緒子・スミス、クレヴィス)
「シリーズ 日本のドキュメンタリー4」(佐藤忠男編 岩波書店)

水俣曼荼羅

 

日本四大公害病のひとつとして知られる水俣病をめぐる人々の生活、学術研究、裁判の様子を15年にわたり撮影したもの。372分による三部構成になっていて、国や熊本県を巡る裁判の行方は、水俣病患者の人たちの日常の光景を追っている。

監督:原一男
Ⓒ疾走プロダクション
2020年/日本/372分/配給:疾走プロダクション/配給協力:風狂映画舎

現在、シアター・イメージフォーラムで先行上映中。全国順次ロードショー

『水俣曼荼羅』公式サイト

金原由佳 Yuka Kimbara

映画ジャーナリスト

兵庫県神戸市出身。関西学院大学卒業後、一般企業を経て映画業界に。約30年で1000人以上の映画監督や映画俳優のインタビューを実施。映画誌、劇場パンフレット、新聞などで映画評を執筆。著書に『ブロークン・ガール 美しくこわすガールたち』、共著に『伝説の映画美術監督たち×種田陽平』。映画祭の審査員、トークイベントなど講演・司会も多数。

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