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LIFE

食物アレルギーの子どもと暮らす

食物アレルギーの子どもと暮らす【その2】〜始まりのアトピー性皮膚炎〜

  • 藤原千秋

2016.10.09

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「こえ、ままご、はいってゆ? にゅうにゅう、はいってゆ? ○○ちゃん、まめらえゆ?」

(これ、たまご、入ってる? 牛乳、入ってる? ○○ちゃん(自分は)、食べられる?)

まだわずか2歳でも、自分には食べることができるものとできないものがある、ということを理解し、必ずそう確認してから口に入れていた長女。

この子との生活で、彼女のアレルゲンである「卵、牛乳、ピーナッツ」を一切を家庭の食卓から排除した暮らしを10年近く経てきたところで発覚した、三女の食物アレルギーは、「卵、牛乳、ピーナッツ」に加えて「小麦、大豆」までもが除去必須な状態でした。

はじまりのアトピー性皮膚炎

2011年3月。震災の5日ほど前に撮影した三女。実際はここから半月ほどで、写真を残すことが躊躇われる勢いでこれ以上に悪化して行きました。

2011年3月。震災の5日ほど前に撮影した三女。実際はここから半月ほどのあいだに写真を残すことが躊躇われるほど、これ以上に悪化して行きました。

それは、東日本大震災発生の4日後。3月15日のことでした。

私は震災後保育園を休ませていた次女(当時4歳)と、まだ生後半年だった三女を連れ、ダイヤの不安定な電車に乗って小児アレルギー科を標榜するある病院に向かっていました。

計画停電実施のため、交通機関をはじめとしたあらゆる店舗や病院等の運営がガタガタになっていた最中のこと。本来ならわざわざ外出するのは躊躇われるはずでしたが、三女のアトピー性皮膚炎と思しき皮膚症状があまりにも酷過ぎて、不安でいてもたってもいられずの強行軍でした。

食物アレルギーであるという確定診断は、その時点ではまだ出ていませんでした。ただ「念のため」に採血していたのが、震災の一週間ほど前。

日に日に悪化する赤ん坊の顔のただれは、余震の恐怖感をも凌駕する痛々しさで、「血液検査の結果を早く見なければ」という急いた思いが私を焦らせていました。

薄曇り。黄色く澱んだ空にハウリングする防災無線の音声を、私はちゃんと聞き取れていませんでした。マスクもせず歩いていた上空を高濃度の放射性プルームが飛んでいたことを知るのはその数時間後のこと。

でもそんな現実すら霞むほど打ちのめされたことを、今でも昨日のことのように思い出せるのです。

「お母さんも食べ物を考えないと、このただれは治らないですよ?」

もう離乳食を開始する時期でした。でもあまりにも酷い血液検査の数値は、それ以前の問題であることを示していました。

「授乳中のお母さんも食べ物を考えないと、このただれは治らない」と言われたのです。

長女の食物アレルギーの除去で「卵、牛乳」を家庭から追い出すことには、もう慣れっこだったとはいえ、長女への授乳が終わってからこちら5年以上、私自身はずっと普通に食べていました。

この二つを抜くのに加えて、これまでは家族全員で食べることができていた「小麦、大豆」を、三女だけの食事から抜かなければいけない。それだけでも家庭の食事づくりでは難儀なことです。

しかし、母親の私の食事まで、これらを控えなければならないとなると、授乳している限り私もあらゆる外食、中食、市販のほとんど全ての卵、牛乳の入った食べ物に加え、パンもうどんも豆腐も納豆も豆乳も食べられないということになります。

「何を食べたら良いの?!」その朝、作り置いた煮込みうどんが脳裏に浮かびました。「帰宅しても、あれは食べられない……」。

かといって、いま私が授乳を止めたら、この小さい三女はいったいなにを口にして生きていけば良いのでしょう。当時、「直ちに影響は無い」という言い回しが流行ったものですが「直ちに影響は無い」どころか、この子はそのへんのドラッグストアで売られている普通の粉ミルクを飲んでも、代替品の豆乳ミルクですら、「直ちに死ぬ」のだという現実に、比喩ではなくもう目の前が真っ暗になりました。

「私がしっかりアレルゲンを除去した安全な母乳を与えて、ある程度のところまできちんと育てなければいけない」という責任感と重圧。

「でもその後、いったい何を食べさせて大きくすれば良いの?」という先の見えない絶望感。

それまで罹っていたこのアレルギー科ではなく、ごく普通の風邪などを診て貰っていたかかりつけ小児科から、「緩徐特異的経口耐性誘導療法」をやっている医療センターへの紹介状をいただくことになるのは、この後のことです。

どうにもならない、先の見えない日々を、それでも1ヶ月以上待って、やっと初診を受けられたのは4月末。三女は生後7ヶ月を過ぎていました。

「お母さんは、しっかり食べて下さいね!!」

その日。まだ電灯が全て灯されない状態でほの暗い、さいたま市民医療センターの待合いは食物アレルギーの子ども達でいっぱいで、予約があってなお数時間待ちという状態でした。そうして、ようやっと会えた担当の西本創医師から言われた言葉を、私は生涯忘れることはないと思います。

「ああ、お母さんは、しっかり食べて下さいね。何でもですよ。卵も、牛乳も、肉も魚も野菜も。食べて良いんですよ。そしておいしいおっぱいをたくさん作って、どんどん飲ませて下さい。でないと、赤ちゃんが元気に大きく育ちませんからね! 育たないと、困るでしょ?」

あまりにも意外過ぎる言葉に面食らい驚きながらも、涙がだらだらこぼれていくのを私は止めることができませんでした。

あの震災直後に血液検査の結果を受け取ってからこちら、おそるおそるご飯を少なめに食べ、大根やニンジンや白身魚や豚の赤身など(それも物資がとても少ない時分で苦労しながら)ばかりを食べてきた私は、もうやせ細ってしまっていた上に、精神的にもすっかり参っていたのです。

それから、あのどうにもならなかった(近医でも、アレルギー科の病院に通っていても、ほとんど変化のなかった)三女の顔のアトピーをしげしげと診察した医師は3種類の軟膏を示し、それらの使い方を教えてくれました。

まずはそのただれ、炎症の「火消し」を行うことを「これから具体的にやっていくこと」として私と夫に指示したのです。

「アトピー」と「食物アレルギー」の関係性がいまいち分からず半信半疑でしたが、とにもかくにも具体的な指針を示されただけでも私は光明を見出した気持ちでした。

軟膏を塗る作業も、入浴後、すかさず、それらを順に「多め」に塗る、ということ。それだけ。特に難しいことではありませんでした。



みるみるうちに治ったアトピー

2011年9月。もうステロイドを使用することはなく、朝晩の保湿のみで元の色白肌になった三女。

2011年9月。もうすっかりステロイドを使用することはなく、朝晩の保湿のみで元の色白肌に。

それでも疑いの気持ちはあったのです。「卵入り、牛乳入り、小麦大豆入りの母乳を飲んで、この炎症が良くなるなんて、本当?」

そんな疑念はものの数日後、驚きの結果を前に雲散霧消します。

三女の顔の炎症は、みるみるうちに治まって行ったのです。

「なんで? 今までさんざん軟膏を貰ってきて、同じように塗ってたはずなのに……一体何が違うの?」

処方された軟膏は、いずれもそれまでの子育てのなかで「初めて見るようなもの」ですらありませんでした。単体ではそれまでもどこかしらで処方されてきたような、ありふれたものです。

でも「使い方」だけが異なりました。複数を組み合わせること。量を勝手にけちらず、しっかり塗ること。

再診のとき、様子を見た西本先生はニコニコして、「いいですね。この調子でまず、アトピーをなんとかしちゃいましょうね。炎症が収まったら、離乳食です。大丈夫ですよ」と言い、半年後すっかり元の色白な肌に戻った三女は1歳の誕生日と同時に、満を持しての「緩徐特異的経口耐性誘導療法」を受けられることになったのです。

従来の「食物アレルギーがアトピー性皮膚炎をもたらす」という理路ではない、「アトピー性皮膚炎が食物アレルギーを引き起こす」という考えかたのもとでの治療は新しく、また目覚ましいものでした。

そうして血液検査の結果や栄養状態などから、最初に解除するのは「小麦」に決まり、三女が食べた初めての小麦は「冷麦」を茹でて「1センチ」の長さに切ったものになったのでした。

つづく。

 

*この記事は、あくまで藤原さんの個人的な記録であり、この対策や治療がどなたにでもあてはまるというものではありません(LEE編集部)

藤原千秋 Chiaki Fujiwara

住宅アドバイザー・コラムニスト

掃除、暮らしまわりの記事を執筆。企業のアドバイザー、広告などにも携わる。3女の母。著監修書に『この一冊ですべてがわかる! 家事のきほん新事典』(朝日新聞出版)など多数。LEEweb「暮らしのヒント」でも育児や趣味のコラムを公開。

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