2019年9月のお題

栗原はるみさんが教えてくれたこと

  • yuki*

2019.09.01

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月刊トップブロガー、今月のお題は「白い暮らしの道具」。

白い道具は色々あります。キッチンには野田琺瑯のバット、麦茶を沸かすための大きなケトル。ティファールの電気ケトルも白です。
水回りにはお気に入りの手洗い用たらい。家電に至っては、扇風機もストーブも白・・。

でも、一番に特別な思い出のある白いものといえば、私にとってはこちら。

 

 

栗原はるみさんの、ぶどうのティーポットとカップ。

この食器を買った頃の話をします。少し長いんですが、最後まで読んでもらえるととても嬉しいです。

 

・・・・・・・・・

 

このセットを買ったのは、今から12年ちかく前。旦那さんと結婚した翌年のことです。

その前の年、結婚してすぐに、ふたりで東京西部の、少し落ち着いた感じのところに引っ越しました。旦那さんの横浜の家がものすごく急な坂道や階段を上ったり下ったりするところにあったので、ここで子育てをするのは自分には無理だと思ったのです。

私は25歳で、会社を辞めて、初めてのお産を控えていました。妻となり、母となり、生活が一変することへの希望と不安でいっぱいでした。

学生時代から住み慣れた西東京なら、スーパーや産科なんかの場所もよくわかっているし、街に起伏が少なく、広い空のある大きな緑の公園もあって、きっとうまくいくと思っていたのです。横浜に住み続けたい旦那さんを説得しました。
旦那さんは、わかってくれました。

独身の時のいろいろなものを処分して、ふたりで揃えた少しの家具と、たくさんの本と、横浜市からもらった結婚記念樹の金木犀の大きな鉢を持って、私たちは横浜をあとにしました。
いつかどこかに居を定めたら、その木を庭に植えようと思っていました。秋が来るたびにいい香りをもたらしてくれることを期待して。

西東京では、賃貸のマンションで暮らしていました。
ずっと裁縫が大好きで、会社員時代に賞与で良いミシンを買ったのだけど、仕事が忙しくてできなかったので、ここぞとばかりに縫い物ばかりしていました。女の子だとわかっていたので、産後のいろいろを考えて、赤ちゃんの服、ベビーシューズ、おくるみ、よだれかけなんかを用意して。

そういうものをたくさん持って、旦那さんのために大量のハンバーグを作り、冷凍庫に入れておき、大阪に里帰りしました。料理も家事も下手だったけれど、自分なりに色々考えて、旦那さんのために生まれてくる赤ちゃんのためにと、頑張っていたのです。

 

 

でも、初めての私の赤ちゃんは、産声をあげることができなかった。
出産予定日を過ぎても陣痛が来ず、促進剤を入れることになっていた朝、入院の用意をして産科に行ったら、もう亡くなっていますと言われたのです。お腹の中でへその緒がきつく絡まって、そのことに誰も気づいてあげることができなかった。

そのまま大きな病院に搬送されて、普通のお産とは何もかもが違うことを経験しました。臨月までお腹で育ててきたのに、最後の一日、ただ結末が違うだけで、こんなに何もかもが違うものなのかと。あと一息のところで、全てがくるってしまったのです。

それでも、赤ちゃんはとても可愛かったです。小さな棺に、心を込めて縫ったとっておきの産着を着せて、足元にシューズも入れてあげました。
ほかにしてあげられることは何もなかったから、持たせてあげるものがあってよかった。
夏至の頃で、故郷の焼き場はとても暑かった。本当なら産科で授乳指導を受けている頃のはずなのに、どうしてこんなところにいるんだろう。両胸が痛くて、頭がフラフラしました。大好きだった祖母も、優しかった祖母の姉も、みんな入っていったあの扉に、箱に入った自分の赤ちゃんが吸い込まれていくのを、ただ泣いて見ていました。

私も一緒にあの扉に入りたい。こんなに小さいのに、ひとりであんな恐ろしいところに入れられるなんて。それを泣いて見てるしかできないなんて、自分はなんて無力なんだろうと思いました。

それから、少しのあいだ実家で養生して、産後一ヶ月の検査を終え、夏の終わりに西東京に戻りました。

あまり何もせず、しばらくぼうっとなって暮らしていたのですが、ある時マンションの隣室から可愛い泣き声が聞こえてきました。最初は空耳かと思っていたのだけど、なんと隣室の家族に赤ちゃんが生まれていたのでした。

誰も彼も全く悪くないのですが、なんというか、途中からなにかの拷問を受けてるみたいに辛くなってきたので、前の引っ越しから一年も経っていないのに、また家を移りたいと旦那さんにわがままを言って、泣きついたのです。
旦那さんは、今度もわかってくれました。

結局、秋のうちに横浜に戻ることになりました。

 

 

横浜に戻ってしばらくして、少し健康を取り戻して、デパートでお歳暮の入力のバイトなどして、穏やかに暮らし始めました。

しかし、時々なぜか、もう聞こえないはずの泣き声が聞こえるのです。今度こそ、空耳でした。そういうことが続いて、だんだん夜あまり眠れなくなってきました。

ちょうどそのころだと思うのですが、置き場所が悪かったのか、あの金木犀の鉢植えが枯れてしまいました。ただでさえ窮屈な鉢植えなのに、あちこち動かしたせいなのかもしれない。せっかく結婚の記念だったのに、そのうち花を咲かせて香らせてくれるはずだったのに、たった1年でもうだめにしてしまった。

落ち込んでいるうちに、ある時くらくらっとめまいがしたので、これはいよいよいけないと思い、病院に行ってみることにしました。心を落ち着ける、眠れるような感じの薬を処方されました。

病院の待合室には、LEEが置いてありました。その時、初めて手に取ったのでした。趣味の良いファッションアイテムや、ハンドメイドの作図、収納のコツ、おいしそうでテーブルに映える料理のレシピ、フランスやイギリスの生活雑貨。実にいろんなことが載っていて、なんだこれは、とびっくりしました。

そもそも女性ファッション誌というものを、それまで定期的に読んだり買ったりしてこなかったので、なんだか視界が開けたみたいに思えました。レシピは料理雑誌に載っているものという思い込みがあって、女の人がおしゃれして表紙で笑っているような感じの雑誌に、こんなに美味しそうなレシピが載っているなんて・・・と驚いたのです。

それまでの生活で、自分は特に食器や暮らしの道具にこだわったことはなかったのです。せっかく新婚なのに、そんなことをすっかり忘れてしまっていた自分に気づきました。

私も、旦那さんも生きていて、毎日の暮らしがある。料理を工夫して作ったり、おしゃれしたりするのは決して悪いことじゃないし、このさきも人生は続くのだから、今しかできないことをしようと思いました。
いつかまた子どもに恵まれたら、今度こそ無事に生まれるよう頑張って、大事に育てよう。その時が来るまで、美味しいものを食べて、元気を蓄え、体と心を立て直して、暮らしを整えて暮らすのだと。

そう思えるようになったので、そこからは病院以外のいろんなところに出かけるようになりました。
ちょうど、横浜にはそごうの隣にベイクォーターができたばかりで、栗原はるみさんのお店、ゆとりの空間が入っていました。

そこでの初めてのお買い物が、この白いぶどうのポットとカップだったのです。

 

 

100人隊になって10年め、今までいろんなお買い物をアップしてきたのですが、その原点と言えるものが、ここにあるような気がします。

そうして暮らしているうちに、また子どもができました。妊娠がわかったのは、ちょうどお中元の入力の仕事が佳境に入った時期だったのだけど、キリがいいところで辞めさせてもらうことに。
そこから出産までは、無事生まれるまでは一瞬も油断はできないと思って過ごしたので、なかなか精神的に過酷な期間でした。

そんな頃に、ベイクォーターのお店に、栗原はるみさんがやってきて、お話ししてくれるトークイベント的なもののお知らせを目にしました。応募してみたら当たったので、お気に入りのビームスのマタニティドレスを着て行きました(当時、それは自分の中ではとっておきのおしゃれ着だったんですね)。

イベントで初めて生で見たはるみさんは、細くてしゃっきりとしていて、とっても素敵な方でした。お料理のことや、これまでの来し方、家族に対する思い、食器の話なんかをしてくださり、楽しい時間はあっという間に過ぎました。

最後に栗原さんへの質問タイムがあって、手を挙げてみたら当ててもらえたので、前からちょっと聞いてみたかったことを質問してみました。

「はるみさんと旦那さんの玲児さんは、年の差夫婦でいらっしゃるということですが、私もちょうどそれくらい年の離れた旦那さんと結婚したところです。栗原さんご夫婦のように、ずっと長く楽しく、仲良く一緒に暮らしていきたいです。そのためのコツや心がけがあれば教えてください。」・・という風に、聞きました。

はるみさんは、笑顔でちゃんと私の目を見て、「何歳離れているの?うちは14年だけど」「15歳です」「じゃあ大体同じくらいね」などと聞いたり答えたりしてくれました。内容は、ちゃんと覚えています。

夫婦でそれだけ年が離れていると、ライフステージの変化のタイミングが一緒じゃないということで、旦那さんの方がかなり早くそれを迎えることになります。
例えばはるみさんの場合は、子どもを産んで育児をしているタイミングで主婦から料理研究家への道を歩み始めたけれど、育児が落ち着いて仕事が盛り上がってきたところで、それまで仕事が忙しかった玲児さんが、一線から退いてお家にいるようになった。となると、必然的に旦那さんを置いて、はるみさんが家をあけることが多くなるわけです。

そういう時に、お互いが機嫌よく日々を過ごせるようにするには・・たとえば、一緒に食べられる朝食や、作り置きのおかずに、旦那さんの喜びそうな好物をいくつか用意しておくようにするのだそうです。
忙しくても忘れられてないと、ちゃんとわかるように。
ちょっとした、ささやかかもしれないような気遣いがだいじだと思うの。

そうおっしゃったはるみさんは、とっても可愛らしかった。親よりも年上の、しかも料理のプロフェッショナルとして日本を代表するような活躍の仕方をされているかたに、そんな風に思うなんて変かもしれないけど、ほんとにそう見えたのです。

 

 

文字にして書くと、さすが料理研究家だなあとも思える答えなのですが。
実際にはるみさんが話している様子を聞くと、たぶんみんなわかることです。旦那さんに対する思いやりというか、いたわりのようなものが優先順位のかなり上の方に常にあって、きっとご夫婦はお互いをとってもだいじにしているんだろうなあって。

人として、男性として尊敬していて、その誇りや気持ちを傷つけないように、上手に立てて大切にしているというか・・とにかく、はるみさんは玲児さんを大好きなんだなーってわかりました。たくさん愛して、そのぶんたくさん愛されているのだ!とわかりました。堂々と愛を語るようすに、めちゃくちゃ感動しました。

若くて、大きな挫折を経験して、今よりずっとまじめに人生について考えていた私は、それにとっても感銘を受けたわけです。いいなーいいなー、そうなりたいなー!と憧れました。お互いを大切にできる、いい年の差夫婦になりたいと思いました。
いつか置いていかれる可能性が高いけど、変化の中でも相手を思いやりながら、一緒に長生きして・・・。

里帰りや引越しで、結婚早々振り回したけれど、うちの旦那さんはその間ずっと、私の心を優先順位の一番にして、大切にしてくれた。私も大切にしよう、この横浜で、家族になって、命を増やして、どちらかが倒れるまで一緒に暮らすんだ。そう思いました。

間違いなく、自分の中で何かの大きな方針が決まったできごとでした。

 

それから、10年以上経ちました。息子は無事生まれ、特に大きな病気もせず、大きくなっています。家族みんな、時々わりと大きな怪我をしたりするけど(!)なんとか元気に暮らせています。
ペアで買ったはずのぶどうのカップはひとつ割れてしまい、なんだか縁起が悪いので、そのときは激しくなげいたりしょげたりしましたが、残ったひとつは今もだいじに使っています。

いやなことも幸せなことも、とびきりおかしなことも、いろいろありました。泣いたり笑ったりするうちに、あの頃のぴーんと張り詰めてた心の感じが、徐々にいい感じに、ゆるくなってきました。
カップの片方が割れたくらいで、考えたくないほど辛いことを考えて思いつめたりはしないで済むようになりました。

あの日の、若かった新妻の私がした健気な決心も、時々忘れそうになったりして。

 

 

そんなふうにいつもの朝がやってきた、夏のある日のこと。

額のケガを治すために飲んでるまずい漢方薬を、起き抜けに顔をしかめて飲んで、口直しの麦茶を温めて飲もうかなと思っていたその時、訃報が目に飛び込んできました。

 

 

なんと言っていいか、もしかしたら何も言うべきじゃないのかもしれないけど、ものすごく悲しかったです。10年以上も前のことなのに、あの時のはるみさんの表情やようすを思い出して、玲児さんを悼む気持ちで胸がいっぱいになりました。

それから、温めたお茶をぶどうのカップに注いで飲みました。はるみさんのあの時の言葉が、人生の指針のようになっていたことに気づきました。
そして、湿っぽくなることは申し訳ないけど覚悟の上で、今月の月刊TBのお題にこのテーマを選ぶことに決めたのです。

 

今でも時々、あの暑い日の、あの扉の前に立ったときのことを思い出します。

どれだけ心の奥底に封じて、ふだんは取り出さないようにしていても、いつのまにか首をもたげてくるのです。でも、それをやんわりと押し返して、おびえを紛らわせて、毎日をつづけるのです。
心の隅っこにとどめながら、なるべく今ある暮らしを大切にできるように。そうして、ただ繰り返すことしかできないから。美味しいものを作って食べて、美しいものを見て、笑って、そうできないときは泣いて、お互いを大事にして、時々抱きあったり、ぶつかったり、生きる意味みたいなものを必死に探したりすることを。

何度あの扉の前に立っても慣れることなど絶対にないだろうし、いつか自分も、大事な人も、あの扉に入る日が来るのだとわかっている。できればそのことは忘れていたいけれど、いずれまた立ち向かわねばならない日は来る。
できれば先であれば、先であるほどいいと思うけど、それを引き受けていくことも、愛したり家族を増やしたりすることの中に、しっかり入っているんだろうなと思いました。

自分は一度あの扉に入ってしまいたいと思ったけども、戻ってきた。あの扉の前から引き返して、家族といっしょに、生活を立て直すことができた。あの扉にほんとうに入る時が来るまで、どれくらいの時間があるのか、それは誰にもわからない。

でも、それまでの間、自分はちゃんと暮らすのです。おいしいお茶を入れたり、誰かに果物をむいたり、身綺麗にしたりして。そうたしかに思えることが、この10何年で得たものなのかなと思います。

 

自分にとってはるみさんは、いつも先を歩いていて、指針になってくれる素晴らしい人です。きっと大勢にとって、そうなんだと思います。きっとこれからも、暮らしの中で見つけた大切なことをその都度、わたしたちに教えてくれるのだと思います。
この素晴らしい仕事をされているはるみさんのことを、一読者として心から尊敬します。大好きです。ずっとずっと、はるみさんのフォロワーでいたいと思います。

 

自分も、幸運にもこうやってブロガーをさせていただいていることで、はるみさんのようにいろいろなメディアで活躍するようなすごい人たちとは比べものにならないけれど、ほんの少しだけ多くの人に発信できる立場にあります。

だから、はるみさんにもらった指針となるできごとを、暮らしの道具の話に寄せて、今回こちらに綴らせてもらいました。

誰かの心に届いていたら、いいなと思います。

yuki*

39歳/夫・息子(11歳)/手づくり部、料理部/横浜在住、大阪出身。港が見えそうで見えない丘の上の古い一軒家で、息子と年上の旦那さんと猫のリサと一緒に、楽しく暮らしています。本とラジオと美しい布が好き。がま口のお店をやっています。一度しかない美しい日々を、あたたかく綴りたいと思います。Instagram:@yukiiphone

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