舞台『猟銃 THE HUNTING GUN』が、ニューヨークで上演されたのは2023年3月のこと。原作は昭和の文豪、井上靖の小説で、ひとりの男性へ送られた3人の女性(妻・愛人・愛人の娘)からの手紙を通して、それぞれの心理を浮き彫りにする恋愛心理劇です。中谷美紀さんがひとり3役を演じたことに加え、世界的なバレエダンサー、ミハイル・バリシニコフさんとの共演とあって国内外でたいへん話題となりました。
喝采の裏にあった、慣れない海外での稽古や予期せぬトラブルで悪戦苦闘するニューヨークでの59日間を綴られたのが、中谷美紀さんのエッセイ『オフ・ブロードウェイ奮闘記』です。インタビューの前編では、本書を書こうと思ったきっかけについて聞きました。インタビュー後編では、舞台『猟銃』にこめられた思いをうかがっていきます。
Profile
中谷美紀(なかたに・みき)●1976年、東京都出身。1993年に俳優デビュー。『嫌われ松子の一生』で日本アカデミー賞最優秀主演女優賞。2013年には『ロスト・イン・ヨンカーズ』で読売演劇大賞最優秀女優賞を受賞するなど舞台でも活躍。エッセイにもファンが多く、『インド旅行記』シリーズや『オーストリア滞在記』『文はやりたし』など著書多数。Instagram(mikinakatanioffiziell)も人気。
私たちはマダム・バタフライではない!
『猟銃 THE HUNTING GUN』では、中谷さんは3役を演じられていますね。長年に渡って不倫していた男の妻、愛人、そして愛人の娘の3人です。演じ分けの難しさはもちろん、セリフ量も膨大で、キャリアのある中谷さんにとっても大きなチャレンジだったのではないですか。
中谷さん この作品は、初演が2011年で、そのときに演出家のフランソワ・ジラールさんに、「3人の役柄の中で、どれでもいいから好きなのを演じて」と言われて、私は「3人とも演じていいならやります」とお答えしてしまったんですね。そうしたらフランソワさんが非常に喜んでくださって、「それだったらギャラが3分の1になるからいいね!」なんて冗談を言っていて(笑)。
私のほうはついそんなことを口走って、「しまった!」と思いながら逃げ回っていたのですが、結局それが現実となりました。でも、ひとりの人間が演じることで、結果的に場面転換も見どころなって、演出の効果はむしろ際立った気がします。
ニューヨークでの公演時には、日本人女性への偏見を払拭したいという思いもあったそうですね。
中谷さん そうですね。欧米では、舞台に出てくる日本人女性といえば、プッチーニのオペラ『マダム・バタフライ』(蝶々夫人)で、日本人女性は、おとなしくて従順というイメージを持たれていることがいまだに少なくありません。でも、「私たちはマダム・バタフライではない!」ということをお伝えしたいと思っていました。
私たちはただ耐え忍ぶだけの存在ではなくて、これだけの感情が幾重にもあって、自分で意志決定をする強さもあるんですよ、というところを観客のみなさんにご理解いただけたらと。今回、『猟銃』の舞台をご覧になったあちらの女性たちが、日本人女性の秘めた強さにとても驚き、また共感してくださっていましたから、少しは伝えることができたのかなと思っています。
音楽家の夫のアドバイスにとても助けられました
稽古から含めるとニューヨーク滞在は長丁場で、体は疲労で悲鳴をあげるし、精神的にもストレスはたまるし、挑戦は過酷さを極めていきます。その中で、ひとときの癒しをもたらしてくれるのが夫のティロ・フェヒナーさんです。ウィーンフィルのヴィオラ奏者のフェヒナーさんが、ちょうど公演でニューヨークにいらしたときには合流して、一緒にご飯を食べたり、舞台のお稽古も見学されたりして。きっと勇気づけられたのではないでしょうか。
中谷さん 夫としての存在に癒されたというより、パフォーミングアーツに携わる者としてのアドバイスがものすごく的確で、それがとても有難かったですね。私が稽古初日から全力で声を出して喉を悪くしてしまったときには、一流のオペラ歌手は稽古初日から本気で歌う人はいないよと教えてくれたり、舞台の音響の調整を助言してくれたり。
稽古場でも本来は家族がいたら気になってしかたがないと思うのですが、彼はウィーン国立歌劇場にて毎晩のようにオペラやバレエの伴奏をしているので、職業柄、気配を消すことができるんです。稽古場にいても誰の邪魔にもならず存在することができる人で、それはもう目から鱗でした。バリシニコフさんともアーティスト同士、通じ合うところがあったのか、あっという間に信頼を得ていて、夫の人間力の高さにあらためて驚かされました。
書くことでマイナスをプラスに昇華させられる
これまでも『インド旅行記』や『オーストリア滞在記』など、日記エッセイを書いていらっしゃいますよね。どれも洒脱でユーモアがあって、臨場感あふれる筆致で読んでいて引き込まれますが、「書く」という作業は、中谷さんにとって、どんな意味がありますか。
中谷さん 半ば、愚痴を言いたくなるようなことを、自分でどうしたら楽しめるかなと思って書いているところがあります。生きていれば、いいことも悪いこともありますし、人生山あり谷ありですけれど、それを書いて吐き出すことによってマイナスな要素をプラスに昇華させている感覚はあります。
今回のエッセイも最初に書いたものは、かなり愚痴日記的な感じでしたので(笑)、本を出すにあたって表現を少し修正しました。その一方で、正直でありたいという気持ちもありましたので、ただ美しくまとめるのではなくて、ネガティブな気持ちをそのまま残しているところもあって、お見苦しい点も多々あるかと思いますが、お許しいただければと思います。
美しい日本語の背景にある恐ろしい物語をぜひ楽しんで
6月8日にはWOWOWでニューヨーク公演のお稽古や舞台などを撮影したドキュメンタリーも放映される予定です。あらためて見どころを教えてください。
中谷さん この舞台は、初演、再演と重ねて、ニューヨーク公演は再々公演になります。その間、自分自身もさまざまな経験をして、この作品への理解が深まりました。物語を少し噛みくだいてお伝えできるようになったと思いますので、まずは井上靖さんの書いた美しい日本語を味わっていただきつつ、その美しい日本語の背景にある恐ろしい物語をぜひ楽しんでいただければと思います。
鏡のない舞台上でセリフを話しながら着付けをするシーン
中谷さんが着物を着付けながらセリフを言うシーンもニューヨークのお客様に好評だったと聞いています。
中谷さん 着付けって、通常は鏡を見ながらするものですけれど、舞台ではお客様のほうを向いて、鏡のない状態で着付けるので、とても難しいんです。小道具の位置や手順をきっちり決めておく必要があって、紐の位置がちょっと違うだけでたいへんなのですが、最終的には何ごとにも動揺せずにできるようになりました(笑)。
最高の原作があって、最高の共演者やスタッフがいて、わざわざ時間を割いて劇場にお越しくださるお客様がいるからには、少しでも良いものを作りたい――と全てを捧げた記録が、ドキュメンタリーとエッセイに納められています。ぜひご覧いただけると幸いです。
Information
WOWOWで放送・配信!
『中谷美紀×ミハイル・バリシニコフ「猟銃」NY公演 密着ドキュメント付き特別版』
中谷美紀、伝説のバレエダンサーであるミハイル・バリシニコフの奇跡のコラボで行われた舞台『猟銃』のニューヨーク公演をスペシャルドキュメンタリー映像つきで放送。
放送日:2024年6月8日(土)16時
放送:WOWOW
原作:井上靖
出演:中谷美紀、ミハイル・バリシニコフ 演出:フランソワ・ジラール
Staff Credit
撮影/伊藤彰紀(aosora) ヘア&メイク/下田英里 スタイリスト/岡部美穂 ネイル/ネイルハウス安气子 取材・文/佐藤裕美
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