【黒柳徹子さんスペシャルインタビュー】「平和のために私たちができることって何ですか?」浜島直子さんが聞く
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浜島直子
2022.08.14
心を乱されるニュースが国内外で続く中、77年目の終戦記念日を迎えようとしています。
「平和が大切だと習ったのに、どうして大人は戦争を止められないの?」そんな子どもの素朴な疑問に、私たちはどんな言葉を返してあげられるでしょうか。
何から伝えればよいか迷ったとき道標になるのは、人生の大先輩・黒柳徹子さんのお言葉。
以前から親交のある浜島直子さんが率直に、素直に、今私たちが直面している戸惑いや迷いについてお聞きしたところ、ご自身の経験談から令和を生きる子どもたちへのメッセージまで、ひとつひとつ真摯に向き合って話してくださいました。
徹子さんからあなたへ、そして子どもたちへ――心から、平和への願いを届けます。
お話を伺ったのは?
黒柳徹子さん
東京都生まれ。トモエ学園から香蘭女学校を経て東京音楽大学声楽科を卒業。NHK放送劇団に入団し、NHK専属テレビ女優第1号として活躍。文学座研究所などで演劇を学ぶ。
著作『窓ぎわのトットちゃん』は800万部を超えるベストセラーに。MCを務めるトーク番組『徹子の部屋』は1万回を超え、同一の司会者によるテレビ番組の最多放送記録を更新中。ギネスを受ける。
●Instagram:tetsukokuroyanagi
●公式サイト:https://totto-chan.jp
【聞き手】
浜島直子さん
1976年北海道生まれ。18歳でモデルデビューし、『LEE』をはじめ雑誌・広告などで活躍。2002~2014年にTBS『日立 世界ふしぎ発見!』にミステリーハンターとして出演したほか、テレビ番組のコメンテーターやラジオパーソナリティを務めるなど、メディア出演多数。〝あべはまじ〞名義でも活動し、『ねぶしろ』シリーズなどを上梓。初の随筆集『蝶の粉』も好評。
●Instagram:hamaji_0912
●公式サイト:http://hamaji.jp
戸惑い、不安、疑問…
LEE読者と子どもたちの“今”を表すエピソード
●「ロシアとウクライナ、お母さんはどっちが勝ってほしい? と聞かれびっくりしました」(100人隊No.085 たこやきさん)
●「テロや戦争にコロナと、海外の不穏なニュースが多く、外国に対する恐怖心のようなものが子どもたちは特に強い気がします。親としては、もっと世界の多様な文化や人の素敵な部分を知ってほしいとも思いますが、どう伝えたらよいかきっかけが難しいです」(100人隊No.034 りーぬさん)
●「世界のさまざまなニュースを簡単に知ることができるようになった今。テレビの世界と自分の環境との境界線がしっかり引かれて、別世界に感じてしまい、戦争が起きているという現状にどこか〝慣れ〞というものを感じ始めているようで自分が怖くなります。自分でもできる、必要な手助けなどが知りたいです」(100人隊No.030 asmさん)
●「中学生の息子が、爆撃を受けた街並みをニュースで見て「戦争ゲームやん!」と言いました。この映像は現実で、実際に市民が亡くなっている…ということのリアルさを子どもたちはどこまで感じ取れているのか不安に思いました」(100人隊No.035 ロンゴアミーゴさん)
●「気になったのは、あまり話題に上らず子どもたちも流しているような気がしたことです。実感が伴わないので、テレビの向こうの話だと感じてしまっている部分がある気がします。外では意見を言うことが憚られる空気があるので言わないということもあるかもしれません。結論や答えを急がず、ひとりひとりが自分の意見を言い合えるような環境づくりは大事だなと思いました」(100人隊No.100 ponyさん)
●「娘から『ロシアとウクライナはどうしてケンカをしているのか?』と聞かれてうまく答えられなかった。娘にとっては『武器を持って戦っている』という時点で両国とも『ケンカをしている悪いやつ』という認識のよう。ロシア側、ウクライナ側それぞれの言い分を正しく伝えたいと思ったが難しかった。(100人隊No.061 humさん)
Naoko Hamajima×Tetsuko Kuroyanagi
「平和のために私たちができることって何ですか?」浜島直子さんが聞く、黒柳徹子さんインタビュー
「私が戦争体験を伝え続けることで平和の大切さに気づいてもらえたら、こんなに幸せなことはありません」(黒柳徹子さん)
「未来を担う子どもたちには希望を持って育ってほしい。あらためてそう思いました!」(浜島直子さん)
クイズ番組『日立 世界ふしぎ発見!』の回答者の黒柳さんと、かつてミステリーハンターを務めていた浜島さんは旧知の間柄。二人が考える「平和」とは?
浜島 黒柳さん、大変ご無沙汰しています! 今日はお会いできるのを楽しみにしていました!!
黒柳 本当に久しぶりね。私も浜島さんに会うのを楽しみにしてたのよ。最後に会ったのは、『世界ふしぎ発見!』の収録のときかしら。あなたはちょうど妊娠中で、おなかがもう本当に大きくって(笑)。「いい子が生まれますように」って、おなかをさすったのよね。
浜島 おかげでかわいい男の子が生まれました(笑)。今その子が小学校2年生なので8年ぶりですね。
黒柳 あら、もうそんなにおっきくなったの? 驚きます。
浜島 うちの息子、かなりマイペースな性格で、私も先生に呼び出されたりすることがあるんですけれど、黒柳さんの『窓ぎわのトットちゃん』を読み返すと、息子なんてまだまだだわと思って(笑)。
黒柳 そうよ、大丈夫よ(笑)。
浜島 私もそう思って、日々トットちゃんに励まされています!
私にとって「戦争」とは、食べ物がなくなることでした
浜島 今日はあらためて「平和」について考えたく、徹子さんのお話をお伺いできればと思います。ロシアのウクライナ侵攻もあって、以前より戦争を身近に感じている人が増えているかと思いますが、一方で終戦から70年以上たって戦争の記憶が社会から薄れつつあります。
今こそ戦争を肌感覚で知っている方にお話をお伺いすることが大事なんじゃないかと思いました。黒柳さんは著書でも書いていらっしゃいますが、小学校2年生のときに戦争が始まったんですよね。
黒柳 そうですね。子どもだからよくわかっていなかったけれど、最初に「戦争」を肌で感じたのは、身の回りのものが次々となくなっていったときでした。
本が大好きで、近所の本屋さんによく通ってたんだけれど、本屋さんの棚がどんどんスカスカになっていくの。紙の使用も制限されていたから本が作れないんです。そんなふうに日常生活のあらゆるものが、お店からなくなっていって…中でも一番つらかったのは、食べるものがないことでした。
浜島 食べ物がないって、今の私たちからは想像できないですね。
黒柳 お米は配給制でしたけど、その回数も次第に減って、白米の代わりにおイモや大豆が配られるようになって。列ができていたから配給だろうって並んだら、お葬式だったっていう笑い話があるくらい(笑)。ついに1日の食べ物が大豆15粒になったんです。
浜島 たったの15粒! 具体的な数字で聞くと衝撃です。
黒柳 朝、母から大豆15粒を渡されるのね。「これがあなたの1日分の食事です」「急いで食べてしまったら、おうちに帰ってきたとき、何も食べるものがないから塩梅して食べてね」って。それでまず朝5粒食べて、お水をいっぱい飲んで大豆を膨らますんです。
学校に行くと、たいていお昼前に空襲警報が鳴るので防空壕に入るでしょ。そこでみんなでおしゃべりしながら、お昼ごはんに3粒食べて。「どうせ死んじゃうかもしれないんだから全部食べちゃおうかな」とか思うんだけど、もし死ななかったら、おうちに帰ったときに食べるものがないから、とりあえず2粒だけにして。それで家に帰ったら残りの5粒を食べる。毎日、そんな生活でした。
浜島 皆さん、本当にひもじい思いをされていたんですね。
黒柳 あの頃は、食べることばっかり考えていました。私にとって「戦争」は、食べるものがなくなる、ということでしたね。
浜島 当時は東京で毎日のように空襲があったんですか?
黒柳 終戦の年には、毎日のようにB29がやってきて、東京大空襲では、一晩で10万人以上の人が亡くなりました。想像もできないようなむごさですね。焼けたのは下町のほうで、私の家があった洗足池(大田区)からはだいぶ離れていたのに空が真っ赤に燃え上がっていて。
「お母さま! 夜なのに本が読めるくらい空が明るいの!」と言ったら、母が「夜の火事は近くに見えるけれど、本当はもっと遠いのよ。目黒くらいじゃないかしら」って。でも、目黒どころか、ずっと遠かった。それくらい炎がすごかったということです。
下町には親戚の家があって、叔父が様子を見に行ったんだけど、「おばさん夫婦も子ども3人もダメだった」って。叔父は、顔面蒼白で体をガタカダと震わせていました。それでもう東京は危険だからということで、知り合いを頼って、青森の諏訪ノ平というところに疎開することになりました。
生と死が常に隣り合わせ。それが当時の日常でした
浜島 バイオリニストのお父さまも戦地に行かれて、お母さまは子ども3人を連れて、疎開先でも本当に大変だったと思います。でも、本を読むと、お母さまは動物的な勘と行動力でピンチに立ち向かっていて、私もこんなお母さんになりたいと思いました。
黒柳 母は子どもたちのために、何とかしなくちゃと必死だったと思います。疎開したばかりの頃、私は栄養失調で体中におできができるし、爪にバイ菌が入って、“ひょうそう”になっちゃったのね。指先がズキンズキンってすごく痛いんだけれど、病院に行っても薬がないから我慢するしかない。
そのときも母は「私に任せて」と言って、諏訪ノ平で採れる野菜や果物をいっぱいかごに詰め込んで八戸まで担いで行って、漁師さんに魚と交換してもらったんです。私もかごを担いで一緒に行きました。
それで手に入れた魚を毎日食べたら、10日くらいでおできが完治したの。タンパク質が必要だって、母はわかってたのね。
浜島 そのたくましさ、見習いたいです。北海道にいるおじいさまが亡くなったときには、お母さまが子ども3人を連れて、青函連絡船で青森から函館に渡ったとか。
黒柳 その頃の連絡船は、敵の爆撃機や潜水艦に狙われていたから、まさに命がけよね。また、その帰りには不思議なことがあったんです。
青森駅から諏訪ノ平に行く汽車がなくて、母は「一晩、青森駅で過ごして、明日帰りましょう」と言うんだけど、私はなぜか青森駅を離れたくて、途中の尻内駅(現八戸駅)まで行く列車に「乗る乗る乗る!!」ってだだをこねて、母も仕方なく汽車に乗ったんです。
尻内駅に着いて待合室で休んでいたら、ドカンドカンってすごい音がしてきて、どこかが爆撃されたみたいでした。あとでわかったことだけど、その晩、空襲にあったのは青森だったんです。何万発もの焼夷弾が落とされて、青森駅から焼けていったって。
もしあのとき青森駅で過ごしていたら、私たち一家は間違いなく死んでいました。なぜそんなだだをこねたのか今でも不思議なのですが、あのときのことは鮮明に覚えています。
浜島 生死が隣り合わせにあるのが、当時の日常だったんですね。
黒柳 そう、それが日常。疎開する前からそうでした。学校でも防空壕に隠れながら、うちに帰って家が焼けてたらどうしよう。お父さまやお母さまが死んでいたらどうすればいいんだろうって、いつも考えてました。私たちは、そういう毎日を過ごしていたんです。
「戦争は嫌」と自由に言える社会でなければいけない
浜島 戦争をテレビやネットのニュースなどで見ていると、当時の日本のように子どもたちが悲惨な目にあっていて、本当に胸が痛いです。
うちの息子も「大人はケンカしちゃいけないって言うくせに、どうして戦争してるの?」って言うんですね。親としても普段言っていることと矛盾してるから答えに困ってしまって。黒柳さんだったら、子どもに何て答えますか?
黒柳 戦争をするのは、それは「愛が足りないからよ」と答えますね。例えば子どもがバレリーナになりたいという夢を持っていたとしても、戦争になったらそんなものは一瞬で粉々になります。大切な家族が死んじゃうかもしれないし、大好きな友達と二度と会えなくなるかもしれない。誰かを本当に愛したことがあったら、そんなこと、絶対嫌だと思うもの。
浜島 なるほど、自分の大事なものに置き換えて想像させると、子どももわかりやすいですね。
黒柳 そう思うわ。かわいがっている犬が撃たれたら悲しいでしょう?大切な犬を守るため、愛するものを守るためには、絶対戦争はしてはいけないってことです。
浜島 黒柳さんも子どもの頃、犬を飼っていたんですよね。シェパードのロッキー。すごく仲よしだったんですよね。
黒柳 そうね。通信簿なんて真っ先に見せてました(笑)。そのロッキーが、あるとき急に姿を消して、探しても見つからなかったんです。そしたらあの頃、軍用犬にするのにシェパードを連れていかれることがあったと知って驚きました。今でもシェパードを見ると、「ロッキーじゃないかしら!?」って思うのね。そんなこと、ありえないんだけれど。
浜島 悲しいですね。
黒柳 でも、あの頃は「戦争反対」なんてこと、誰も言えませんでした。社会全体が戦争に傾いていったとき、「戦争はしないほうがいい」って声を上げるのは難しいんです。もし言ったら、牢屋に入れられて、拷問を受けたりして。「みんな仲よく暮らしたほうがいい」って言っただけで捕まった方もいらっしゃいましたから。
浜島 自分のやりたいことや自分の気持ちより、すべてがお国のため。お国優先ってことですね。
黒柳 嫌よね、そんなの。でも、今だって、だんだんそういう雰囲気になりつつあるでしょう? 「戦争は嫌です」って大声で言えない雰囲気になってきているもの。どんな状況になっても、「戦争反対」って、自由に言える社会でないとダメだと思います。
浜島 本当にそうですね。黒柳さん自身も、スルメ欲しさに兵隊さんの出征を見送ったことを後悔していると著書にありました。
黒柳 当時は兵隊さんの出征を日の丸の旗を振って見送ると、スルメの足が一本もらえたの。とっても細い足だったけれど、私はおなかがすいてたから、みんなが駅で「万歳!」ってやってると、すごい勢いで走っていって一緒に旗を振って、スルメをもらっていたわけ。
でも、戦争が終わった後に、私、いけないことしたなって。「あんな小さい子どもが応援してるから、頑張って戦おう」と思って戦死した人がいたとしたら、それは私の責任だから、私も戦争に加担したんじゃないかって、とても後悔しました。
浜島 自分たちも知らず知らずのうちに戦争に加担してしまうことがあるということですね。
黒柳 以前、『徹子の部屋』に俳優の芦田伸介さんが出演されたとき、「無力の罪」ということをおっしゃっていました。
国家という巨大な力の前では、自分たちは無力だったけれど、抵抗できなかった自分たちにも何かしらの責任があるのではないかって。私も戦争に行く人を「万歳! 万歳!」と見送りすべきじゃなかった。それはやはり無責任だったと思います。
だけど、あるとき、この話をトーク番組でしたら、番組宛てに手紙がきたんです。「私は戦争に行って何もかも失って、戦争や国家を恨みながら戦後を生きてきた。でも、あなたが小学生だった頃の些細な出来事に戦争責任を感じていたと聞いて、自分の中の恨みがすっと消えていくのを感じた。あなたのおかげで自分の中の戦争を終わらせることができた」って。それで私も少しだけ胸のつかえが軽くなりました。
浜島 とても重い話ですね。戦争がみんなの心に大きな傷跡を残したことがよくわかりました。
社会が不安定になったとき、犠牲になるのは子どもたち
浜島 黒柳さんは、1984年からユニセフの親善大使として、これまで40カ国近く海外を訪問されています。戦争や紛争に巻き込まれて家族を亡くしたり、飢饉や病気で苦しむ子どもたちを支援されていますが、現地で子どもたちと接していて、一番感じるのはどんなことですか。
黒柳 赤ちゃんって、普通はぷくぷくしているでしょう? でも食糧がなくて、極限までやせ細った赤ちゃんは、おばあさんみたいに顔がしわくちゃなんです。目の中のみずみずしさも失われて、乾いた目でじっとこっちを見ている。笑うことも、泣くこともできない。そんな赤ちゃんをアフリカではたくさん見ました。
ハイチでは、当時12歳の少女が売春をして家族を養っていて、同行していたカメラマンに「私を買ってくれ」って言うの。値段は日本円で42円くらい。「エイズが怖くないの?」って聞いたら、「エイズになっても何年かは生きられるでしょう。私のうちは、明日食べるものがないんです」って。それが彼女たちの現実なんです。
浜島 お話を聞いて愕然としますけれど、実際に子どもたちと接する徹子さん自身も大きなショックを受けるのではないですか。
黒柳 本当に胸が痛みます。こんなにつらい思いをするなら行かなくてもいいんじゃないって言う人もいます。でも、この活動を始めた頃、インドの病院で破傷風の男の子に会ったんですね。筋肉が硬直して、しゃべるのも難しいんだけれど、私が「頑張るのよ」と言ったら、「うっうっ」って何か言うの。
看護師さんに「なんて言ったんですか?」って聞いたら、「あなたの幸せを祈っています」って言ったって。胸が詰まりました。そんなにつらい状況なのに、私の幸せを祈ってくれるなんて…。
浜島 …。
黒柳 それでこの仕事を続けていこうと思いました。私が行くことで、悲惨な状況に置かれた子どもたちのことを多くの人に知ってもらって、少しでも子どもたちが助かればいいなと思っています。
浜島 社会が不安定になったとき犠牲になるのは、結局子どもや、弱い人たちなんですよね。
黒柳 そうよ。そして子どもたちはそういう目にあうのは「自分のせいだ」って思うの。「自分がいい子にしてなかったから、お父さんが戦争に行っちゃった」って。
浜島 本当は大人の責任なのに。やるせないです。
黒柳 だけど、時にはうれしい出来事もあるのよ。以前、ネパールに行ったとき、小さい女の子がかごを背負って、水の中の泥を運ぶ作業をしていたんです。その子に「大きくなったら何になりたい?」と聞いたら、「洋服屋さんになりたい」って言うから、「じゃあ、私のお洋服を作ってちょうだい。だけど私も年だから早く作ってね」ってお願いしたの。
それから10年くらいして、またネパールに行ったとき、ユニセフの人がその子を探してくれたら、なんとその子はお金をためてミシンを買って、洋服を縫う仕事に就いていたの!
浜島 なんて素敵な再会!
黒柳 彼女は、私にかわいい模様の入ったブラウスを作って持ってきてくれて、「『大きくなったら何になりたい』なんて聞いてくれた人はいませんでした。あなたが初めてでした」って。私に質問されて、「そうだ、私は洋服屋さんになりたいんだと気がついた」って。あのときはうれしかったわね。
浜島 感動しますね。人間、やっぱり希望を持つことがすごく大事っていうことですね。
黒柳 そう。子どもたちが伸び伸びと明るい未来を思い描ける社会をつくっていくことが大切ですね。
浜島 お話を聞いていると、人の悲劇や不幸を「他人事」ではなく、「自分事」として考える想像力の大切さにあらためて気づかされます。どうしたらそのような想像力を身につけられますか?
黒柳 やっぱり本を読むのはいいと思います。私は小学校に上がる前、足が悪くて入院していたことがあって、本を読むしかなかったから読書が好きになったんですけれど、本を読むことで想像力が養われたかもしれないですね。
それと、寝る前に父が毎晩のように本の読み聞かせをしてくれたんです。お世辞にもうまくなかったけれど、それが日課でした。
浜島 素敵ですね。うちも息子が寝る前に「これ読んで」って絵本を持ってくるので読んであげています。いろんな声色を使って、一生懸命頑張って読むんですけれど、パッと横を見たら、もうすっかり寝てたりして(笑)。
黒柳 かわいい。それは子どもにとって、いい思い出になるわね。
浜島 そうですね。大人になったとき、それが愛された記憶になればいいなと思っています。今日は本当にありがとうございました!
黒柳 こちらこそ、楽しかったわ。またお会いしましょう。
8年ぶりに再会した二人
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from Tetsuko Kuroyanagi
“平和”は自分たちで守るもの
心に留めておきたい、徹子さんの言葉
徹子さんのお話から感じられるのは、「平和は享受するものではなく、ひとりひとりの行動がつくり上げるもの」だということ。
ユニセフ親善大使として世界中の子どもたちを訪れ続ける徹子さんの、著書や今回のインタビューから、温かくも切実な〝平和を願う言葉〞をご紹介します。
●「自分が痛い思いや怖い思いをしているとき、ひと言でも優しい言葉をかけてくれる人をどう思いますか? うれしいですよね。あなたも友達にしてあげてくださいね」(本特集インタビューより)
●「命があること。人の心と心が通じ合うこと。人生で、それ以上に幸せなことはないのです」(黒柳徹子『徹子さんの美になる言葉』光文社知恵の森文庫)
●「あなたは、大好きな友達と二度と会えなくなると考えたことがありますか?たった一人ぼっちになることを想像できますか? 誰もいなくなる、それが戦争なんです」(本特集インタビューより)
●「テレビで戦争をテーマにとりあげるのは、命のたいせつさを伝えたいからだ。戦争経験者の話を通じて、戦争を知らない人たちに少しでも、平和のたいせつさや尊さを知ってほしいと思う。それが自分の役目であり、テレビ本来の役目でもあると、私は固く信じている」(黒柳徹子・田原総一朗『トットちゃんとソウくんの戦争』講談社、2016)
38年目、のべ39カ国。これは徹子さんが1984年にユニセフ親善大使に就任してからの年数と、訪れた国の数。
周囲が驚くほど精力的に、紛争や飢餓、貧困などの困難な状況に置かれた子どもたちに会いに行き、優しく声をかけ、彼らの声を聴き、抱き締めてきました。
帰国後はメディアを通して支援の必要性を伝え続け、今までに集まった寄付金額はなんと63億円以上! スワヒリ語で〝トット=子ども"を表すことが運命のように、トットちゃんこと徹子さんはこれからも世界中の子どもたちに寄り添い続けます。
“トットちゃん”こと徹子さんが訪ねた国々
●1984 タンザニア
●1985 ニジェール
●1986 インド
●1987 モザンビーク
●1988 ベトナム、カンボジア
●1989 アンゴラ
●1990 バングラデシュ
●1991 イラク
●1992 エチオピア
●1993 スーダン
●1994 ルワンダ、旧ザイール
●1995 ハイチ
●1996 ボスニア・ヘルツェゴビナ、クロアチア
●1997 モーリタニア
●1998 ウガンダ
●1999 コソボ、アルバニア、マケドニア
●2000 リベリア
●2001 アフガニスタン
●2002 アフガニスタン、ソマリア
●2003 シエラレオネ
●2004 コンゴ民主共和国
●2005 インドネシア
●2006 コートジボワール
●2007 アンゴラ
●2008 カンボジア
●2009 ネパール
●2011 ハイチ、日本(東北)
●2013 南スーダン
●2014 フィリピン
●2016 ネパール
●2017 ミャンマー
●2019 レバノン
2022年LEE9月号(8/5発売)「黒柳徹子さん『今、子どもたちに伝えたい“平和”』」より掲載
撮影/下村一喜(AGENCE HIRATA) ヘア/松田コウイチ(MAHALO)、メイク/MAHIRO(ともに黒柳さん) ヘア&メイク/ナライユミ(浜島さん) スタイリスト/大野美智子(黒柳さん) 石井あすか(浜島さん) 取材・文/佐藤裕美 本誌編集部
※商品価格は消費税込みの総額表示(2022年8/5発売LEE9月号現在)です。
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