あの日、あの時間は、次男をおんぶ紐に背負って少し早めの夕飯の支度をしていました。
旦那さんと長男は、ホームセンターに買い物に行っていて留守。いつもと変わらない普段通りの日でした。
ん?
カタカタカタカタ…
地震だ!!!
すぐに次男を前抱きに変え、落下物を気にしながらしゃがみこみ、揺れが納まるのを待ちました。
揺れが納まったのを確認し、NHKを点け、すぐに旦那さんに電話をかけました。もう帰宅途中とのこと。安堵し、長男の様子を聞きましたが、さほど怖がる様子もなく大丈夫、とのこと。車中もかなり揺れて怖かったよ~と。
…その後のことは正直あまり覚えていないのです。
静岡県の震度は4。
旦那さんは、そのまま非常呼集がかかり制服と数枚の着替えを持って署へ。「いつ帰れるかわからないよ。大丈夫?」と言われましたが、私がしっかりしなきゃ誰が子供たち守るの!と言って送り出しました。(不安でいっぱいでしたが)
報道されるのは、映画なの?CGなの?と現実とは思えない映像。ショックでした。
その後、静岡県内の署員たちも緊急援助要請がかかり、南相馬市へ。旦那さんは緊援隊が戻るまでの人員不足解消の為、署へ留まり帰らない日が続き、4日後の15日、静岡県内も東日本の余震によるマグニチュード6.4の地震が起き、眠れない夜を過ごしました。
子供たちと福島へ
震災後、子供たちと福島、宮城へ行きました。
宮城県では松島へ向かう途中、仮設の消防署で勤務している消防士さんたちを見かけ、泣き出してしまった息子たち。
壮絶な現場だったことだと思います。自分の大切な人よりも、市民の安全を護る為、どれだけの犠牲を払ったことだろうと思うと頭が上がりません。
そして、私たち家族も他人事ではない。パパは、災害の最前線に行く。災害が起これば、一緒にはいられないから自分たちでなんとか生き残る為に日々防災意識を高めなければいけない。
旦那さんと目の高さがほぼ同じになった長男。それに追いつけ追い越せと日々大きくなる次男。泣きべそだったのが懐かしいほど頼もしい存在となり、パパに、「なにかあったらママを頼むな」といつもこっそり言われているの知ってるよ。ありがとう。
アクアマリンふくしまの”がれき座”
津波によって破損したアクリル板を使ったモニュメント。被害の大きさを物語り、そして忘れない為に置かれていました。
今もあるのかな…当時はインパクトが強すぎて、子供たちも動揺していました。
忘れないことで追悼
私が暮らす静岡県も、「明日くるかもしれないよ!」と言われている巨大地震に脅かされている地域です。
子供たちも、年数回の避難訓練の実施。
幼稚園時代、訓練を見る機会があったのですが、非常ベルが鳴った瞬間、子供たちが園庭に上靴のまま駆け出し、先生による人員確認点呼、そのまま隣接する小学校へ駆け足(というよりほぼ全力疾走)で避難。
門では高学年の生徒さんが待ち構えていて、誰から言われるでもなく園児たちの手を引き、時には抱えて校庭へ集合。子供を預ける親としては、本当に頼もしく、安心して子供を預けられる環境下にあることをありがたく思いました。※ちなみに、最近は津波想定訓練となり、階段をとにかく必死で駆け上がる訓練に変わったそうです。
日々の訓練により、サバイバーとなった際慌てず落ち着いて冷静な行動ができるスキルを小さな頃から習慣づけていることは、頼もしいです。
と同時に、この訓練が訓練のまま終わってほしい…と思ってしまいます。
もし自分が親の立場だったら……『「生きる」大川小学校 津波裁判を闘った人たち』寺田和弘監督インタビュー【東日本大震災から12年】
遠く離れた東北の地で起こった未曽有の事態。決して他人事ではなく、自分にも明日起こるかもしれない。
誰かを失う苦しみを味わうのも、明日の自分かもしれない。
亡くなられた方のご冥福を静かに灯る炎を見ながら祈ります。
被災者の皆さんを遠く静岡からいつも応援しています。
12年の月日が経過しましたが、今なお震災による心の傷を負い、大切な人を失った悲しみと共に生きている人がいて。元気で暮らすこのあたりまえの日々がどんなに尊く、有難いものかを再確認すべき日として3.11を過ごしています。
PRAY FOR 東北
039 - しろ
会社員 / 静岡県 / LEE100人隊
39歳/夫・息子(16歳・13歳)/料理部・美容部/休みの日はクロスバイク、ランニングで汗をかくのが大好きです。わが家のゴールデンレトリバーの末っ子長女にもたまにランニングに付き合ってもらってます。腹ペコ男子たちの胃袋をがっちりキャッチする&健康的な体作りのため、美味しいご飯を作るのも大好きで、日々レパートリーを増やすために勉強の日々です。
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039 しろ