今回のゲストは、パラアスリートの谷真海さんです。谷さんは、20歳の時に骨肉腫により右足膝下を切断。2004年にアテネ、2008年に北京、2012年にロンドンと、走り幅跳びで三大会連続パラリンピックに出場しました。出産後の2016年には競技をパラトライアスロンに転向、昨年は東京パラリンピックにも出場しました。柔らかな物腰と優しい笑顔が癒し系の谷さん、苦労を乗り越えた強い心はどう育まれたのでしょうか。前編では、さまざまなスポーツと共に過ごした十代と大きな転機となった病気の治療、サントリーに入社するまでを聞きます。(この記事は全2回の1回目です)
スポーツ少女時代の辛い練習で得た「思考の癖」
谷さんは、宮城県の気仙沼生まれ。両親と兄、祖母、曽祖母という大家族に生まれました。父親は医療事務、母と祖母は日本舞踊の先生をしていました。小さな頃は外で遊ぶのが大好きな元気いっぱいのスポーツ少女。2歳年上の兄の影響で、小学校からスイミングスクールに通い始めます。
「他の習い事は公文くらいで、ほぼ放課後は毎日スイミングに通っていました。3年生からは選手育成コース、4年生からは選手コースでした。練習が厳しくて、子どもなりに辛かったのを覚えています。その時コーチから“気持ちで負けるな、気持ちが折れるとそこで終わり”と言われたことを思い出します。辛くて逃げたいと思っても、“もう少し頑張ってみよう”と思う癖がついたのは、その経験のおかげかもしれません」
6年生の時、毎日3000、4000m泳ぎ込んでも記録が伸びなかったこともあり、中学からは陸上部へ。高校は大学進学を見込んで、仙台育英学園高校へ進みます。親元を離れ、初めての寮生活。高校では特進コースを選択したため、部活は禁止されていました。マラソンの全校大会で1位を獲った谷さんに、陸上部のコーチから「入ってみない?」と誘われ、高校2年生から陸上部に入部します。朝練はマラソン10km、授業中は疲れから居眠りすることもありました。忙しい毎日でしたが、県内トップクラスの選手と練習することで新たな気づきもあったと言います。
「陸上の長距離って、苦しいスポーツなんです。スポーツ=苦しさがあって当たり前、その先に成長があるのが普通だと思っていましたが、トップクラスの選手は楽しむ気持ちを忘れていないんですよ。あと、指導者にも恵まれたのも大きかったです。結果よりも努力の過程を褒めてくれる先生と出会え、結果はそう簡単には出ない、目標を作ると過ごし方が変わることを知りました」
19歳で右足膝下切断。とにかく出口を見続けていた
大学は、早稲田大学商学部に入学。小学6年生から憧れていたチアリーディングの夢が実現します。充実した大学生活を過ごしていた19歳の冬、長く続いた右足の痛みが気になり病院へ。結果、骨肉腫と診断されます。3カ月の入院を経て、右足膝下を切断する手術を受けます。著書『ラッキーガール』(集英社文庫)には、当時を以下のように綴っています。
———「どうして神様はここまで私を苦しめるんだろう」
———「病気が何かの間違いであって欲しい」
そんな状況でも、チアリーティングの仲間や先生に病気を自分で伝え、実家に戻らず東京で治療する決断をします。
「当時の自分が、なぜあれほどまで強くいられたのか。今振り返っても不思議です。想像を絶する辛さでしたが、とにかく不安が大きかったんです。治療を始めて1カ月も経つと、抗がん剤治療で髪が抜け落ちる。一人家で泣くこともありましたが、そこで気持ちを整えて、また病院に戻りました。暗いトンネルの中にいるようで、いつこれが終わるのか、義足をつけた人生はどうなるんだろうと不安でした。とにかく出口を見続けていた気がします。そのために、まず目標を決めました。最初の目標は今までの普通の生活、大学生活に戻ることでした」
治療後、再びスポーツをすることで生きていくと決意
自分の弱さと向き合ったことで、どう生きていくかの答えを見つけたと言います。それが、再びスポーツをすることでした。大学に復帰した後は、障害者スポーツの存在を知り、水泳を再開。そこで義肢装具士の臼井さんと出会い、走ること、走り幅跳びに挑戦します。大学を卒業する2004年には、走り幅跳びでアテネパラリンピックに内定しました。
「大学は休学せず、入院中もテストだけ出たりレポート提出に変更してもらったりと、単位を落とさないように努力しました。留年も考えましたが、同級生が変わってしまうのでできれば4年で卒業したい。かつらをつけながら就職活動をしていました。就活は、長所と短所を考える時でもあります。就活と自分が立ちあがろうとするタイミングと重なったこともあって、過去を振り返る良い機会でもありました。そんな時に出会ったのが“やってみなはれ”のチャレンジング精神を掲げたサントリーでした。将来が描けず漠然としている中で、好きなことに挑戦できること、いろいろな職種から仕事を選択できるところに魅力に感じました」
パラスポーツが前を向いて歩く力を与えてくれる
晴れてサントリーに入社し、谷さんはCSR推進部(入社時は、スポーツ推進部)に所属します。入社当初は、アスリートにインタビューして記事を書いたり、サントリーオープンのゴルフトーナメントを担当をしたり、裏方のような仕事がメインでしたが、現在は自分の経験を伝えるスピーカーとして講演やイベント出演が中心に。活動は多岐に渡りますが、それぞれが「自分しかできないこと」と自負しています。
「社会貢献活動はサントリーとして大事にしている部分で、利益三分主義と言って、利益の3/1は社会に還元するのが企業理念。私の経験を伝えることは、自分自身のライフワークであり、草の根運動的に続けています。それが会社からも認められているのは嬉しいですね。震災以降、会社として何ができるかを考え、アスリートらと一緒に被災地の子どもたちとの交流を行なっています。
「みんなちがって、みんないい」#Tokyo2020 #Paralympics #TeamJapan #パラトライアスロン pic.twitter.com/AjdsYL685z
— 谷 真海 / Mami Tani (@mami_sato) August 30, 2021
パラスポーツを通じて、困難に立ち向かっていける。パラスポーツが前を向いて歩いていける力を与えてくれるんじゃないかと期待しています。私自身がずっと感じていたことを事業として継続できることにやりがいを感じますし、感慨深くもあって。イベントに参加した人からの感想も一人一人感じるポイントが違っていて興味深いんですよ。それぞれの言葉がとても愛おしいです」
その中で特に嬉しかったのが、谷さんを主人公にした劇を小学生が学芸会で演じてくれたこと。
「(谷さんの著書の)『夢を飛ぶ』(岩波ジュニア新書)が教科書に載っていて、近所の小学校が学芸会でそれを発表してくれたんです。おそらく先生が台本を作ってくれたんだと思います。残念ながら直接観ることができなかったのですが、終わってから子どもたちのランチタイムにサプライズで行きました。教科書に出ている方って、亡くなっている方も多いじゃないですか。今生きてチャレンジしている過程だからこそ伝えられることもあるのかなと思っています」
病気を克服し、自分で行動を起こすことの大切さを実感
谷さんはアスリートとして入社していないため、普段のトレーニングや合宿の計画は自分で立て、施設や宿の予約も全て自分で行います。働き方と競技とのバランスも、会社と相談しながら進めています。
「パラアスリートも今は、サポートをきちんと受けている選手は多いと思います。2020年までオリンピックバブルがあって、企業はたくさんのアスリートを雇いました。競技がメインで、サブ的に仕事をする感じですね。私が入社したのは18年前だったこともあり、基本9時に出社して14時15時に退社。その後に練習をします。会社には、たくさんサポートしてもらってきたので、恩返しをしなきゃと活動してきました」
スポーツと共に育まれた人生。その中で学んだことは、目標を立てること、自分で決めること、病気を克服してからは行動を起こすことの大切さを実感しています。
「目標を立てることは、小学生で水泳に挫折した後に感じたことでした。水泳を途中で諦めてしまった後悔があったのも大きかったです。スポーツは定期的に大会があるので、それを目標にするのが分かりやすいですね。自分で決めることは、親はいつも私の決断を受け入れてくれたのがありがたかったです。病気を通じて一番変わったのは、自分で行動を起こすことですね。自分で人生を作っていかないといけない。そのためには、自分で積極的に動くこと。出会いが全て、出会いが自分を作っていくんだと思うようになったことで変わりましたね」
(後半では、東京招致のスピーチについてや東京オリンピックパラリンピックを振り返って思うこと、競技と育児との両立についてお話を伺います。どうぞお楽しみに!)
谷真海さんの年表
1982年 | 宮城県気仙沼市で生まれる |
---|---|
6歳 | 小学校入学と同時にスイミングを始める |
13歳 | 中学校に入学。陸上部に入る |
16歳 | 仙台育英学園高校特進コースに入学。高2の時に、陸上部に入る |
19歳 | 早稲田大学商学部に入学。12月に骨肉腫と診断される。3カ月の治療を経て手術、右足膝下を切断。半年の抗がん剤治療を経て、リハビリへ |
20歳 | 10カ月後に復学する |
22歳 | 早稲田大学卒業。サントリーホールディングスに入社。アテネパラリンピックに出場。走り幅跳びで9位 |
26歳 | 北京パラリンピックに出場。走り幅跳びで6位 |
29歳 | 早稲田大学大学院に入学 |
30歳 | ロンドンパラリンピックに出場。走り幅跳びで9位 |
31歳 | ブエノスアイレスで開催された、IOC総会の東京招致の最終プレゼンテーションでスピーチ |
32歳 | 結婚 |
33歳 | 長男を出産 |
34歳 | 競技をトライアスロンに変更 |
39歳 | 東京パラリンピックに出場。パラトライアスロンで10位。日本選手団旗手を務める |
撮影/高村瑞穂 ヘアメイク/久保フユミ(ROI) 取材・文/武田由紀子
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