【東日本大震災から10年】福島市議に当選。「“かけ橋”として福島で起こったことを、伝え続けていきたい」/佐原真紀さん
2021.03.05
2016年4月号のインタビューから5年。東日本大震災関連の報道が減る中で、彼女たちが日々、どんな葛藤や奮闘を続けてきたのか。
新型コロナの流行で現地取材がままならない中、今回はオンラインでじっくりとお話を伺いました。ぜひ彼女たちの思いを共有してください。
Profile
さはら・まき●福島市出身。48歳。長女は現在、高校生。化粧品会社勤務、自宅サロンオーナーを経て、現在、福島市議会議員。NPO法人 「ふくしま30年プロジェクト」理事長。
5年目インタビューより
福島市で被災。県外に避難したいという思いも抱えながら、家庭の事情で福島に残ることを選びました。子どもを守るために情報を集め、放射能対策を続けますが、小学生の娘が普通に外遊びもできない生活が続きます。やがてNPO法人「ふくしま30年プロジェクト」の活動に参加。食品や空気中の放射線量測定や内部被ばくの検査を続けるうちに、判断材料となる正確な情報を発信していく大切さに気づきます。
震災の記憶、原発事故への関心が薄れていく中で
佐原さんが理事を務めるNPO法人「ふくしま30年プロジェクト」は放射能測定器の設備を備えた、市民のための測定所として活動を続けてきました。けれども震災から年月がたつにつれ、その活動にも徐々に変化が訪れます。
「福島市内の空間線量は確実に下がってきています。食品の放射能測定や、ホールボディカウンターでの内部被ばくの測定希望者も減りました。県外保養の活動を続けてくださっていた団体も、東日本大震災への関心が薄れる中で資金集めが難しくなり、ひとつ、またひとつとなくなって、昨年からはコロナでほとんどがストップしています。
以前はインドアパーク『チャンネル スクエア』内にあって、パークに遊びに来た方たちがついでに保養の情報を探しに立ち寄ってくれるような環境でした。身近な場でさまざまなデータや支援情報を提供できたのですが、2018年にインドアパークが移転したことで事務所も移転してから、そういう機会もほとんどなくなりました。
今後、NPOとしてやっていける活動が少なくなってきた。じゃあ私は次に何をするべきか、考えるようになりました」
そんな変化の中で、佐原さんに大きな転機が訪れます。
原発事故後、福島県内や全国各地に多くのモニタリングポスト(リアルタイム線量測定システム)が設置されました。けれども2018年3月、原子力規制委員会は、放射線量が低下していることを理由に、一部地域を除きモニタリングポストを撤去するという方針を示します。
「毎日見ているわけではありませんが、廃炉作業はまだ続いていて、事故が起きる可能性もあります。撤去してしまったら、もしも何かがあったときに危険を知ることができなくなります。県内の市町村ごとに要請書を提出しようという動きが生まれ、私は『モニタリングポストの継続配置を求める市民の会@福島』の代表として、福島市長に要請に行くことになったんです。
それをFacebookで発信したところ、いつもは数人シェアしてもらえるくらいなのに、250件くらいシェアされてびっくりしました。まったく知らない方からも『そういう活動があるなら参加したい』『半休をとって一緒に市役所に行きます』と反応があり、予想外にたくさんの方が集まってくださいました。
そして皆さん口々に『震災後、おかしいと思っても、何でそうなるんだろう、とがっかりしているだけだった。決まっちゃったんだからしょうがない、とあきらめるだけだった。決定してしまう前に自分たちの声を届けに行く機会があってよかった。そういう機会を作ってくれてありがとう』と言ってくださって」
その後、2019年に、撤去方針は撤回されることになります。
私たちの声を政治に届けたい。議員立候補を決断!
佐原さんは、被災3県(宮城・岩手・福島)で市民活動を続ける女性たちが学び合う場、「グラスルーツ・アカデミー東北」にも参加していましたが、いつも話題に上るのが「意思決定の場に女性が少ない」ということでした。
「市役所に要請に行った体験から、私たちの声を政治に届けるのは本当に重要なことなんだと実感しました。その後、市議会議員選挙に出ることをすすめられ、ふと、そうか、あり得ないことではないな、と思ったんです。
その頃、福島市議会議員35名中、女性はたった3名。女性の声が届きにくいことをずっと問題に感じながら、誰かそういう人が出てくれればいいのに、と人まかせにしていましたが、みんなそう思っているんですから、自分がその役割をするべきじゃないか。みんなの声を届けるかけ橋になれれば、それだけでもすごく重要なことじゃないか、と」
佐原さんは2019年6月の福島市議会議員選挙に立候補し、1534票の支持を得て当選します。
「ギリギリの最下位当選、次点の方とはたった11票差でした。
選挙のルールがありますのでNPOの会員さんへの案内は一切しませんでした。立憲民主党が推薦してくださって、あとは家族や親せき、友人、知人が本当に一生懸命応援してくれて。『私、5人に電話したよ』『家族に、みんなで佐原真紀ちゃんを応援してねと伝えたよ』と。
当選した後、農家さんに桃を買いに行ったら『いやもう本当におめでとうございました、こんなに自分の1票が大事だと思った選挙はなかったです』と言ってくださったのも、すごくうれしかった。本当に、そのひとりひとりがいなかったら、私は当選できなかったんだなぁ、と。あのとき私に投票してよかったと思っていただけるように頑張っていかなきゃと思うんです」
誰に1票を入れるかで政治はきっと変わっていく
福島市議会の女性議員は3人増えて、6人になりました。女性の声は届き始めているのでしょうか。
「少しずつ届いていると思います。例えば議会の一般質問では、おむつについて発言しました。市立の保育園で、保育士さんや保護者の方がおむつを持ち帰るのが負担になっています。他の自治体では保育園におむつを処分する設備を整えているところもあるので、ぜひ福島市でも実現してくださいと。それは今、前向きに検討されています。
また、私は文教福祉委員会に入っていますが、この委員会という場はかなり重要だと感じています。委員会は、議員と、市役所の各課の方たちが集まって開かれます。文教福祉委員会には、教育委員会、子ども未来部、健康福祉部の3つがあり、その課の方たちが、市の活動や予算案を説明してくれます。それに対して議員が疑問に思うことを質問したり、意見を出したりできるんです。
今、庁舎増設の計画が進んでいるので、赤ちゃん連れで議会の傍聴にくる方のために託児スペースが必要だとか、子育てサークルのために和室の部屋があったほうがいいなどの声を伝えています」
不便を感じながらも、誰に言えばいいのかわからない。そんなときに佐原さんのような議員に伝えれば、その声が市政に届く。それだけで政治が身近に感じられます。
議員というのは市民の声を届ける代表。その役割を果たしたい
「私自身も、委員会で伝えたことがちゃんと取り入れられると実感しています。福島市が『震災復興パネル展』を開いたときも、最初の企画では、“こうして復興してきた”という内容ばかりだったんです。それで『これまでの反省も含めて、つらい思いをしてきた人の体験や、県外避難した人、避難から戻ってきた人の声なども、もっと伝えるべきだと思います』と伝えたところ、いろいろな立場の方の写真や動画も見られる展示になりました。準備段階で市民からの意見やメッセージを募集して市民参加型にしてほしい、という意見も取り入れられました。
もちろん、そう簡単に思いどおりにいくことばかりではありません。でも、震災直後は行政への不満だらけでしたが、議員になってみると、職員の皆さんは一生懸命やってくださっている。ただ、いろいろな意見が入ってきていないのだ、と感じます。
市役所の職員にも、子育てしながら働くお母さんはたくさんいます。ご自身も不便を感じながら、今までの流れで変化がなかったところに、議員からの意見として『おむつを持ち帰らずに済む設備の拡充を』と言うことで、『じゃあその方向で』と行政も動きやすい。これが大事だなと。
私は御用聞き。本来、議員というのは市民の声を届ける代表です。その役割をしっかりやろう、と思っています。これってどうにかならないかなということを、なんでも言ってほしい。『自分の声が届くわけがない』『誰に1票入れても変わらないだろう』とあきらめている人たちの思いがわかるので、いや、そんなことないんだよ、みなさんの声はもっとちゃんと伝わるべきなんだよ、と伝える行動を続けていきたいです」
未来に向け、子どもたちに向けプロジェクトは続く
最近の議会で質問したことは、大きく分けて3つ。障害がある方たちの就労支援、食物アレルギーの方たちへの災害時の対応、コロナ禍で増えている女性への暴力の相談窓口についてでした。
「先輩から、ちょっと少数派の課題に偏り過ぎていないか、もう少し大多数の人に関わる質問も考えたほうがいいのではないかと言われました。でも、私は今までNPOで、行政から取りこぼされてしまう部分を担う活動をしてきたので、どうしてもそういうところに目が向いてしまう。議員は35人いるのですから、大多数の人に関わる質問をする人は他にもいらっしゃるでしょう。私は私らしく、あまり他の人の目が届いていない課題を入れていきたい、とお話すると、それはすごく大事なことだね、とわかっていただけました。
みんなそれぞれ自分の得意なことや、自分の経験を活かしてやっていければいいと思うんです。男性も女性も、いろいろな世代の人がそれぞれの声を届ける代表を選んで、いろいろな立場の議員がいる。そんな議会が理想ですね」
今後取り組んでいきたいことのひとつに、子どもたちへの放射線教育があります。今、すでに震災の記憶がない、震災を知らない子どもたちが増えています。市立小中学校では放射線教育に年間2時間をとっていますが、その限られた2時間の内容が重要なのです。
「福島で生まれ育った子どもたちが、原発事故のことを何も知らないままではいけない。だけど震災当時はまだ学生で、何を教えていいかわからない20代の先生方も増えているわけです。今後の放射線教育に関する研修会があると聞いて、私も参加させていただきました。
模範の授業を見たら、素晴らしいんです。例えば震災直後の子どもたちが教室の片隅で植木鉢の植物を育てている写真を見せて『何をしていると思う? どうして校庭じゃなく教室の中でやっているのかな? このとき、子どもたちは外に出られなかったんだよ』と身近な例から当時の状況を考えさせ、親子で話し合う時間を持つことへ展開していくんです。
こういう授業を各学校できちんとやって、どんなことがあったのか、放射線とはどんなものなのか、今も続いている問題は何なのか、子どもたちに伝えていってほしい。そして議員になったことで、こういう課題にもかかわれることに、やりがいを感じています」
佐原さんの娘は震災時、ちょうど幼稚園の卒園でした。震災の記憶がある最後の世代と言えます。それまでは毎日真っ暗になるまで外で遊んでいる子でしたが、震災後は犬の散歩も禁止、外遊びは週末に県外に出かけたときや、夏休みに保養に出かけたときだけ、という生活になりました。
「犬のモコは娘が中1のときに亡くなりましたが、昨年、モコにそっくりの白柴に出会って、家族になりました。家族みんな、りつにすごく癒されてます。娘も、今はりつと一緒に散歩に行っています。
娘も高校生になったので、『あれしちゃダメ、これしちゃダメ』とは言っていません。でも、すっかりインドア派に育ってしまって、私がそうさせてしまったのかなと、ちょっと後悔もあるんですけど。
でもずっと家の中で絵を描いたりばっかりしていたので、それが良かったのか、絵が得意になって。今、デザイン科で学んでいます。
先生から聞いたのですが、娘が将来について『お母さんが大事なことを人に伝えようという活動をずっとしてきたから、自分はポスターや映像で、アートで大事なメッセージや思いを人に伝えられるようになりたい』と言っているそうです」
同じことが繰り返されないよう、私たちがきちんと伝えて生きたい
震災が残した課題は、今も解決したわけではありません。
「震災後は行政でもホールボディカウンターで子供たちの内部被ばくを測定していたのですが、ほとんど全員が検出限界値未満になってきて、あとは希望者だけというふうに変わってきました。『ふくしま30年プロジェクト』への依頼が減ったのは、いいことでもあります。ただ、もともと検出限界値が高いということもあり、もっと確実に数値の上下がわかる尿検査をしてほしいという方もいます。
福島市の空間線量もだいたい0.1(マイクロシーベルト)台くらいになりましたが、山のほうはもっと高いところもありますし、小さいお子さんが山に入って何か拾って遊んだりするのは、私は心配です。
除染作業は終わって、今は、福島市内の仮置き場で保管していた除去土壌を、市外の中間貯蔵施設に運び出している段階です。でも、最終処分地が決まっていないわけですから、これからどうなるのか。
健康被害については、いろいろな研究がありますが、確かなことはわからず、なんとも言えません。ただ、甲状腺がん早期発見・早期治療のためにも、甲状腺エコー検査は継続しておこなってほしいと思っています。放射線の身体への影響はスパンが長いため、子どもたちの未来のためにも、長きにわたっての検査が重要だと思っています。
各地で次々に災害が起こり、今はコロナ禍で、それぞれの地域で貧困で困っている方たちがたくさんいる。健康被害が本当に出ているのかわからない福島の子どもたちより、まず地元の子どもたちを支援しよう、となってくるのも当たり前で、正直、しかたのないことだと感じます。
でも、このままどんどん関心が薄れ、記憶が薄れて、経験したことのない世代ばかりになってしまったら、また同じことが繰り返される。私たちが、きちんと伝え続けていかなければならないと思っています」
※2021年2月13日に東北地方を中心に大きな地震が起きました。被害を受けた方々に心よりお見舞い申し上げます。(取材は2020年12月に行われました)
イラストレーション/わたなべろみ 取材・文/石川敦子
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