ワンオペ育児の冬の季節
懸命に忘れたふりをして、なかったことにして、記憶の奥底に閉じ込めた光景がある。その光景がふとしたことで記憶の浅瀬まで浮かび上がってくる度に、感情が私の足元からざわざわと湧き出して、あっという間に身体中を惨めさで覆い尽くす。
私は幼い娘に手を上げたことがある。その私の姿は醜く、ただひたすら惨めな生き物だった。
2〜3歳ごろの娘は鼻や喉が弱く、風邪を長引かせては扁桃腺炎になって高熱を出したり、副鼻腔炎を起こして、就寝中に鼻水が逆流して反射的に戻したりということを繰り返していた。子どもの体調は大人の思い通りにはならない。スケジュール通りにもならない。でも若くして子育てを始めたばかりで「こうあらねば」「こうせねば」という思い込みに強く縛られていた未成熟な母親は、深夜に娘が突然吐瀉した寝具やパジャマを新しいものに替え、苦く酸っぱい匂いが充満する中で娘の髪や顔を温かいタオルでぬぐいながら、「明日の一時保育に連れて行けるだろうか」「私は明日の資格学校の授業に出られるだろうか」という不安ばかりに心を覆われていた。
当時そんな言葉は存在しなかったけれど、大学を卒業してそのまま専業主婦となった私は、いま思えば絵に描いたようなワンオペ育児を続けていた。夫は社会人2、3年目で、自分の業務や退社時間を自分で決める裁量なんてない。会社に言われるままに早朝から出社し、上司や同期とのつきあいの中で夜遅くまで飲めないお酒を飲んでは、寝るためだけに帰宅する。これまた当時そんな言葉など存在しなかったけれど、絵に描いたような「平日母子家庭」であり、休日も休日で休みたい夫に「迷惑をかけてはいけない」と私は強く思い込んでいた。
夜中に子どもが盛大に吐いた後処理は初めから最後まで私がひとりですべきで、「パパを起こさないように」静かに速やかに終わらせるべきものだった。教育やしつけは「当然、100%母親である私の責任」。子どもが風邪を引くのはひとえに私の管理不行き届きで、医者に連れて行くのもその看病も薬をスケジュール通りに飲ませるのも、それが長引いたゆえに自分が家から出られなくなるのも全て私ひとりの責任。と、強く思い込んでいた。
だから夫は、20年前の娘の小児科も耳鼻科も知らない。子どもが受診するときに出す乳幼児医療証なんてものの存在も知らないし、子どもとどういう導線で受診して薬をもらって帰ってくるのか、その薬をどうやって小さい子どもに飲ませるのかだって、たぶん関心を持ったことがないはずだ。
私の周りだけ、冬が長かった。春が来ようと夏になろうと、心象風景は当時住んでいた築25年の中古マンションのコンクリート壁とぞっとするような鉄のドアにぴたりと閉ざされたまま、寒々しい冬が続いていた。
うずくまって泣いた娘
ある深夜、娘が戻すと、私の口から「またなの?」という言葉がついて出た。何かの堰が切れたようだった。「いつもママが世話してやってるのよ」「感謝してよ」「毎晩毎晩、ゲロゲロとよくもまあ」「匂いが取れないじゃない」吐瀉物のついたパジャマやタオルをお湯でゆすぎ、薄ら寒い深夜、幼い娘を下着姿でお風呂場の横に立たせたまま、私は目も合わさずに鋭い言葉で娘を責め続けた。
翌朝だった。夫はとっくに出社している。資格学校の授業に出たい。予約していた一時保育に連れて行かなきゃ。でも娘は、甘ったるい味付けで薬臭さを誤魔化した粉薬を飲むのを嫌がった。ああだこうだとなだめ聞かせる何度目かのトライで、お白湯と一緒に口に流し込んだ粉薬を娘が吐き出した時。「治す気、あんの?」私は瞬間的に娘の頬を鋭く叩いた。口元から下が吐き出したもので汚れたまま、痛みと驚きで泣きだした娘を、私は「その始末も私なんだから!」と突き飛ばした。
うずくまったまま泣く娘の、小さく丸い背中を見て、私は瞬間的に沸騰した自分の全身が今度は急冷していくのを感じた。そのまま動けなくなってしまった。
私、いま何をしたんだろう。何をやっているんだろう、私は。
惨めだった。私自身は、母親に叩かれることなく育った。それなのに、こんな小さく無力な生き物に、圧倒的に強くて大きい大人の私が力で痛みを与え、大きな声で脅した。私は、醜いモンスターだ。20年近く前、自己嫌悪に全身どっぷりと溺れたまま、娘を抱き上げて親子で泣きながら着替えさせた、そこから私の記憶はあやふやになっている。ただ、あの時のピシッと鋭く弾ける音と、娘の頰の赤さと、突き飛ばした手の感触と、私の激しい感情と、小さく丸い背中だけは鮮明に覚えていて、どんなに忘れたくてもフラッシュバックする。
「子供に分からせるには叩くのも必要悪」? 大人の甘えと偽善
「二度とするものか」と強く思った。何一つ正当化なんてできるわけがない。私は、私の感情に負けたのだ。力でいうことを聞かせて、一体それで何が解決するというのか。そこには恐怖と不信しか生まれず、そして信頼は崩壊する。言葉のコミュニケーションに失敗し、理性を失い、他の手段や逃げ道が一切見えなくなっていた。あの瞬間の私は独善に支配され、ただ愚かで醜かった。幼い子供の目から見れば、恐ろしい力を持った怪物だった。
あの時、人は暴力をふるってしまった瞬間、自分がしたことの結果を見るショックで謝罪の言葉なんてするっと口から出てこないことを知った。だから私は、暴力を奮った人間が相手にすぐ「ごめんね」「可哀想なことをしてしまった」と優しく謝って、どうしてそんなことをしてしまったのかの理由をするすると話して、何らかの償いをするなんてシーンを見ると、「ああ、この人は習慣的に他者に手を上げる人間だ」と勘付く。「私があなたを叩いてしまった理由」を流暢に説明する人間は、いつもその理由を相手の側に上手になすりつけて、「だから仕方なく自分は叩いたのだ。それ以外に方法がなかったのだ」と自分を守って言い訳をする。それは、大きな嘘だ。
体罰や虐待や暴力の本当の問題は、殴られた側ではなく、常に殴った側の中にしかない。殴った側は、「最終的な解決に暴力を選んでしまう」、「その逃避的な思考回路が癖になっている」点で、感情と行動の調整に失敗しているからだ。私は、躾(しつけ)や「愛のムチ」などという言葉を理由に子供への体罰や暴言を正当化・習慣化してしまっている、そしてそんな自分の葛藤を暴力という出口から吐き出す思考回路が癖になってしまった、自分の嘘に本当は気づいて悩んでいるお母さんを見ると、あの瞬間の私と同じ「helpless=誰かの助けが必要なのに得られない」人なのだと感じて、助けてあげたい、助けなくてはと思う。
体罰容認派に、性別や年齢は関係なかった事実
2018年2月、公益社団法人セーブ・ザ・チルドレン・ジャパンは「子どもに対するしつけのための体罰等の意識・実態調査結果報告書」を発表した。
「しつけのために、子どもに体罰をすることに対してどのように考えますか」という問いに対し、「決してすべきではない」は43.3%で、「積極的に」・「必要に応じて」・「ほかに手段がないときのみ」子どもへの体罰をすべきであると回答した、しつけのための体罰容認派は56.7%。
体罰という言葉で連想する行為が人によって異なる場合を考慮して「たたく」という具体的な言葉を用い、「しつけのために、子供をたたくことに対してどのように考えますか」という質問をしたところ、「積極的に」・「必要に応じて」・「ほかに手段がないときのみ」子どもをたたくことをすべきであると回答した人はむしろ微増して60.0%となった。
そして体罰容認派の回答者の属性(年齢、性別、居住地、子どもの有無)には、顕著な差が確認できなかったというのが、驚きだ。つまり女性でも男性でも、どこに住むどんな世代でも、子どもがいてもいなくても、日本人の6割が「子どもはしつけのために叩いていい」と容認していることになる。また、たたく部位や加減の強弱をより詳細に質問すると、「こぶしで殴る」「ものを使ってたたく」「加減せずに頭をたたく」にも約1割の容認派が存在した。「頰を平手でたたく」では容認派が約3割、「お尻をたたく」「手の甲をたたく」の容認派は約7割にのぼった。
「なぜ、しつけのために、子どもをたたくべきだと思いますか」の問いに対して、体罰容認派の約4割を占める最も多い回答は「口で言うだけでは子供は理解しないから」だった。そして回答の多い順に「その場ですぐに問題行動をやめさせるため」「痛みを伴う方が、子どもが理解すると思うから」「たたく以外に子どもをしつける方法がわからないから」「大人の威厳を示すため」と続く。「相手に暴力をした場合に痛みをわからせるため」「どうして叩かれたか考えさせるため」「自分もそうやって学んだから」「愛情があれば叩いても解ってくれると思う」との声もあった。
「自分より無力な子どもを、体の大きな大人が叩いてもいい理由」なんて本当は存在しない。「大人の威厳」「痛みをわからせる」「愛情があれば解ってくれる」。それらはたたく理由というよりも大人の自己弁護の響きがあり、自己中心的で、偽善的じゃないだろうか。そしてその体罰容認派に、男女も年齢も子供の有無も大きくは関係していなかったことを、私たちはどう理解すべきだろうか。
「子どもを叩いたことがある」約7割の人へ——子どもは叩かないで育てられるとまず自分を信じてほしい
子育て中の男女を対象とした実態調査結果によると、過去にしつけの一環として子どもを叩いたことがあったとの回答が70.1%。過去3ヶ月にあった行動で「こぶしで殴る」が6.6%、「頰を平手でたたく」が18.4%存在した。また、「子供の言動に対してイライラする」「育児、家事、仕事の両立が難しいと感じる」「孤独を感じる」「家に引きこもり、子どもを連れての外出が難しい」頻度が高いほど、体罰の頻度も高くなる傾向が見られたのは、私の体験的な実感とも一致している。
「あなたは、たたいたり怒鳴ったりせずに子育てをしていますか」と直球で尋ねた質問への回答が印象的だ。「たたいたり怒鳴ったりせずに子育てをしている」と答えた、うらやましいようなノープロブレム派は34.7%。「子育てでたたいたり怒鳴ったりすることはあるが、しない方法には興味がない」と開き直った(?)のは4.5%。でもそれ以外の6割以上にのぼる大多数が、「たたいたり怒鳴ったりせずに子育てをしたいし、その方法も知っているが、実践は難しい」「子育てで叩いたり怒鳴ったりすることがあるが、しない方法があれば知りたい」と考えている。
子どもをたたいたり怒鳴ったりすれば、その体や心を傷つけることを、私たち大人は(中には自分たちが受けてきた体験からも)もちろんよくわかっている。「愛の鞭」などという言葉で正当化した体罰や暴言が、結果的に子どもの脳の発達に深刻な影響を及ぼす恐れがあるとの研究結果を見たことがある人もいるだろう。そして国連「子どもの権利条約」では、締約国に体罰・暴言などの子どもを傷つける行為の撤廃を求め、既に子どもへの体罰等を法的に全面禁止している国は世界50か国以上に及んでいるのだそうだ。
子どもは、叩かないで育て、導くことができる。それはまず大人がそう信じ、自分に言い聞かせることで初めて実現できること。たたかない、怒鳴らない、ポジティブな子育ての方法を知りたい人は、ぜひ子どもの権利のパイオニアとして約100年の歴史を持つ、子ども支援専門の国際NGO、セーブ・ザ・チルドレンのページをご覧ください。
また、この記事で取り上げた調査に深く協力をしたNPO法人児童虐待防止ネットワークが作成協力した「愛の鞭ゼロ作戦」も、体罰や暴言などの恐怖によるコントロールを用いない子どもとの向き合い方をシンプルに教えてくれるので、忙しい育児の合間にほんの5分でいいから目を通してみて欲しいと切に願っている。
暴力を一切用いずに子どもを育てることは可能。それは、子どもへのあらゆる形態の暴力的な扱いや、心理的虐待に当たる扱いを禁じる法律を導入したスウェーデンの、現在まで35年間の歩みが実証していることだ。痛みを伴わなければ子どもはわからないなんていう独善的な物言いは、子どもも、大人である自分の能力をも過小評価してしまっている「知性の敗北」で……いや、そんな格好つけた言葉じゃなくて、シンプルに「野蛮」だと私は思っている。
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河崎環 Tamaki Kawasaki
コラムニスト
1973年、京都生まれ神奈川育ち。22歳女子と13歳男子の母。欧州2カ国(スイス、英国)での暮らしを経て帰国後、子育て、政治経済、時事、カルチャーなど多岐に渡る分野での記事・コラム執筆を続ける。2019秋学期は立教大学社会学部にてライティング講座を担当。著書に『女子の生き様は顔に出る』(プレジデント社)。