がん治療と育児
抗がん剤治療は3週間ごとに1週間ほど入院をして行うことになる。
ここまで約1ヶ月半に及ぶ入院手術+1クール目の抗がん剤治療が終わり、2クール目の抗がん剤が始まるまでの間、一度退院して暫く家で娘と過ごした。
そして、2クール目の抗がん剤治療の入院前、母と妹が娘を連れて当時私が住んでいた札幌から350㎞ほど離れた道東の実家に戻ることに。
1ヶ月半の私の入院の間、夫は仕事とお見舞い、母と妹は自宅から遠く離れた私の家で一歳児の育児をしながら毎日病院までお見舞いをする日々。
この頃、家族全員が慣れない環境に疲れていっぱいいっぱいになっていた。
当初の予定では、私の手術が終わり退院して体調が戻ったら母と妹は地元に帰る予定だったのに、約半年近くの抗がん剤治療が追加になった事で今後の生活をどうするか家族で話し合った。
私は6回の抗がん剤治療の度に入院することになっており、副作用もある中1人で育児をする事が難しい。
母と妹も生活圏が遠く、自宅に気軽に帰ることが出来ない。自宅では父が1人で待っていた。
夫は仕事が忙しく残業もある。保育園も待機児童でいっぱいだった。
母が言った「ごめん、チビうさ連れて自宅に戻るわ」。
私自身が地元の病院に転院して治療する事も考えたけれど、再発への不安が残る中、今入院してる病院を離れる決断も出来ず。
治療が終わるまでの半年間、娘と離れて暮らすことになった。
娘との別れ
娘と離れる日、3人を私が車で駅まで送った。
特急に乗って去っていく娘を見て、病気になってから初めて号泣した。嗚咽しながら駐車場に戻り、
「本当にごめん」「病気なってごめんなさい」って思った。
娘はたった1歳なのに、母親と父親と暮らせなくさせてしまった。
治療のため、生きるために、今は頑張るしかない。わかってる。
でも、もしも、もしも、すぐに病気が再発したら…??そんな考えが胸を過る。私はもう娘と夫と三人で暮らすことは出来なくなるんじゃないか。
自宅に戻り、一人になった家の中で、散らばったおもちゃと、娘の手垢が付いたテレビ画面を見て更に泣けた。
育児中「1人の時間が欲しいな〜」なんて思ったからバチが当たったのかもしれないって思った。
娘と一緒にいられることは当たり前じゃなかった。
抗がん剤治療
話は前後するけれど、手術後の病理検査結果が出た後すぐ、1回目の抗がん剤治療をした。抗がん剤はTP療法と呼ばれるもので、パクリタキセル(T)とシスプラチン(P)という薬剤を使用。
その頃の私の抗がん剤治療のイメージは、酷い嘔吐が続くようなテレビドラマで見るような壮絶なもので。
「どれほど具合が悪くなるんだろう」と不安だったけれど、当時既に吐き気止めの薬が進化しており、私は薬とも相性が良かったようで気持ち悪さや食欲不振はあったもののほぼ嘔吐することはなかった。
ただ、抗がん剤はやはり劇薬。がん細胞を叩くけれど正常細胞もやられていく。全6回の抗がん剤を続けるうちに色々な副作用があった。顕著なのは脱毛。あとで話すけれど1回目の抗がん剤であっという間に髪の毛が抜けた。それと回を増すごとに辛くなる全身の倦怠感。他にも筋肉痛のような痛みや眠気など。ステロイドも使ったことで顔は浮腫んでパンパンのムーンフェイスにもなった。
倦怠感に関しては治療が終わってもなかなか回復しなくて、薄紙を剥ぐように本当に少しずつ少しずつ数年かけて回復していった。当時は子育てもあって自分の追い付かない体力がもどかしかった。
脱毛
抗がん剤治療が決まり、脱毛するとわかった段階で一度外泊させてもらいディスカウント美容室へ。
そこそこ長さのあった髪を何のオーダーもせず「ショートカットにしてください」とだけ美容師さんにお願いし、美容師さんを動揺させるw「え、どんなショートカットがいいとか無いんですか!?」と。「何もないです。切って下さい(どうせ抜けるんで 心の声)」というオーダーに美容師さん怯えてたw
ショートカットにしたものの、その後あっという間に脱毛。
「なんか頭皮がチクチクするな~」と思ったら、ある日お風呂場で髪を洗っていたら面白いくらいごっそり抜け始め、そのまま排水溝に流したら詰まるので大変。仕方ないから夫にバリカンで刈ってもらい坊主になったはいいけど、今度は少し残ってた短い髪が枕カバーや服に落ちてそれはそれで大変だった。
1回目で頭皮はほぼ焼け野原状態。そこから2回目以降は眉毛もまつげも鼻毛も抜けたw ちょっと書いておきたいんだけど、鼻毛が無いとラーメン食べたら鼻水がダイレクトに落ちてきます。鼻毛って大事だから!みんなマジで鼻毛大事にした方がいい。毛にはそれぞれ生えてる意味があるぞ。
脱毛した時に忘れられないエピソードがある。抗がん剤が終わったあと私の親友からメールが届いて
「ねぇ、毛抜けた??」
「いや、まだだよ」
「まだ抜けてないのか!!」
「いや、抜けるの待たないで🤣」
若くして脱毛するってなかなかデリケートな話でみんな触れてこない中、親友だけが「早く抜けろ!」って笑ってくれたのが逆に嬉しかった。私の性格をわかってるイジリで。腫れ物に触るように扱われるよりずっと嬉しかった。
つるっつるになった後はウイッグをかぶって過ごしていたんだけど、一度妹とプリクラを撮りに行って、機械の中でウイッグ外して坊主で撮影したのもいい思い出 笑。
がん患者さんとの出会い
手術と抗がん剤治療を含めると約半年間入退院を繰り返した。
そこでたくさんのがん患者さんと知り合い、本当に良くしてもらった。同じ絶望を経験した仲間意識というのか、院内ではがん患者カースト(?)というような目に見えない何かがあり、カースト順は年齢ではなく「病状」であり、治療歴や状況が大変な人ほど上にいた。個人の感想です
そう、大変な人ほど上にいる世界 笑。病院の外の世界では「若くしてがんになってかわいそうな私」が、病棟においては「初発ひよっこがん患者」。私の病歴を語るといつも先輩たちが「とはいえまだ再発ではなく初発。治る可能性があるんだから頑張りなさい」と励まされ、若かったこともあり可愛がってもらった。私なんかより大変な状況の人がたくさんいたけど、みんな明るく闘っていて。
ここでは病気である自分を偽らなくていいから居心地がいい。
当時、私の入院していた病院は狭い部屋に4-6床もぎゅうぎゅうにベッドがある病院で、そのおかげもあって患者同士の距離も近く、みんなでワイワイおしゃべりしては主治医の先生たちに「健康ランドの集会のよう」とよく笑われた。
病気は人を選ばない
たくさんの患者さんと出会って思ったことは「病気は人を選ばない」ということ。
私よりも若い子も、小さい子どもがいても、バリバリ働いていても、家庭を守っていても、シングルマザーでも、優しい人も、そうじゃない人も。
病気になるのに理由なんて何もなかった。誰だって、いつだって病気になる可能性がある。ある意味すごく平等だと思った。病気になるのに悪いことをしたとか、バチが当たったなんてない。ただそこにあるのは不運だけ。
*
ある時、障害を抱えたお子さんがいる患者さんと同室になったことがあった。
「もし私が先に死んでしまったら、子どもも夫も困ると思うから治療がうまくいってほしい」と言っていた。その後、その方と病院で会えなかったからどうなったかはわからなくて。
みんなそれぞれ事情を抱えながら闘っていた。病気は個々の問題なんてお構いなしだ。
誰だって同じ境遇になる可能性がある。自分だけは大丈夫なんてことは絶対にないから。
そんな闘病中の出会いの中で特に心を支えてくれた人たちがいた。
次回で闘病のお話はおしまいの予定。最後に大切な仲間の話を。
―――つづく
005*あのプリクラどこにいったかな~うさこ
TB - うさこ
パート事務員 / 北海道 / LEE100人隊トップブロガー
44歳/夫・娘(15歳)/料理部・美容部/ゴルフ大好き激務夫と、部活に燃えたアイドルオタクな娘と自然豊かな道央圏在住。子宮頸がん、抗がん剤経験者。数々の人生の修羅場をユーモアで潜り抜け、LEEを愛してここに辿り着く。自称明るい人見知り。カスタムした軽自動車で、推しのキンプリやJUMPを流しながら車中泊やドライブを楽しみ、カフェに行って読書や手帳を書くぼっち時間が幸せ。趣味はダイエット、特技はリバウンド。痩せた時だけ会える“幻の私”を日々追い求めている。週末おいしいビールを飲む為に働くマイペースな4年目隊員。160㎝に憧れるも、身長は何度測っても159㎝。
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