前回の続きです!
さて、次に転機となったのは娘が2歳半のときです。
それまで住んでいた大阪から、夫の転勤にともない東京に引っ越してきました。
わたしは東京でも仕事を続けるという選択肢もあったのですが、自分の今後のキャリアのビジョンが描けずに行き詰っていたことに加え、
娘が保育園でいつもひとりだけ先生に抱っこされて集団に参加していないこと、教室のにぎやかさが怖くて別スペースで過ごしたり、ひとつ下の学年に入れてもらったりしていること、つまり保育園生活に全然ついていけていないことが気になっていたこともあり、いったん仕事をやめて、幼稚園入園までは療育に専念させることにしました。
引っ越しの少し前に、(転居先の)区役所に電話をして「療育を続けたい」と伝えたところ、引っ越してすぐに区の障がい者福祉センターで発達検査を受けることができ、近所にある民間の児童発達支援の事業所に通えることとなりました。
このあたりの対応のスピード感や、事業所の豊富さは地域によって全く異なるため、福祉の充実した場所に引っ越してこられたことは我が家にとってたいへん幸運なことでした。
この頃には最初に不安視していた運動面の発達よりも、ことばの発達の遅れや、少し周囲とはちがうなと感じる言動の方が不安要素となっていましたが、「1年半療育に専念させれば、4歳児年中クラスの幼稚園入園には集団生活になじめるくらいまで成長できているんじゃないかな」と若干楽観的な気持ちでいました。
そんなこんなで娘と通うことになった事業所は、親子でいっしょに登園し、親も子どもとの接し方を学んだり、親子みんなでいっしょにお弁当を食べたりしながら過ごすような療育園でした。
はじめて登園したとき、先生やほかのお母さんたちがみんな明るく元気で驚いたことを思い出します。
いま考えるとおかしな話なのですが、それまで通っていた療育では他の保護者とまったく接触する機会がなかったので、わたしの中で「障がい児のお母さん=悩んでいる人、たいへんな人」みたいな固定概念があったのです。
もちろんそのとき同じクラスにいたどのお母さんも、それぞれ悩んだりたいへんだったりしたのでしょうが、ぱっと見ではみなさん全然明るくておしゃれなふつうのママたちで、「わたしもほかのママたちと同じように、あれこれと子どもに関係ない雑談をしたり、好きな服を着たり、楽しんでもいいんだ!」と嬉しく感じました。
また単純に、ほとんど知り合いのいない東京で、挨拶しあえる関係の人たちができたことがとても頼もしく感じました。
自閉スペクトラム症の診断を受ける
とはいえ、親子で療育園に通っていた半年は、それまでの保育園に頼った生活から、ほとんどの時間を娘と二人で過ごす生活に戻ったことでわたしはかなりストレスをため、娘のかんしゃくも激しい時期で、自分でいま思い返しても引くぐらい娘に怒っては自己嫌悪を繰り返していました。
また、一緒にすごす時間が増えたことで「やっぱりちょっとおかしい、娘はきっと自閉症だ」と強く感じるようになります。
決定的にそう感じたのは、ふたりで近所の児童館に行ったときのこと。
娘よりも遥かに小さい女の子が、お母さんとおままごとのおもちゃを「どうぞ」「ありがとう」という感じでやりとりしているのを見たときでした。
その子はまだことばは出ていませんでしたが、そこには明らかに「いわゆる普通のコミュニケーション」、心の通ったやりとりが成り立っていました。
娘とのコミュニケーションは、ただ単に成長の速度が遅いだけじゃない、なにか普通とは完全に質がちがうものだ、と確信したのです。
そこから障がい児を専門とした病院で自閉スペクトラム症(と発達の遅れ)の診断を出してもらうまでには、予約に日にちがかかったり、発達検査や聴力検査、採血、脳波、MRIなどを経たりしたことで、また半年ほど時間がかかりました。
診断が出た時点では娘は3歳半になっていましたが、「わたしの育て方がわるいんじゃなくて、脳の障がいだったんだ」と心から安堵しました。
そのころには療育園のクラスも進級して、(幼稚園のように)親子を分離した保育がはじまっていたことや、それまで仕事が忙しすぎて娘とほとんど関わることがなかった夫が休日を取れるようになったことで、少しずつわたしたち家族の生活は安定していきました。
ちなみにトップの画像は、このころ育児に参加し始めた夫と、家族3人で石垣島に旅行に行ったときのものです。
娘の幼稚園生活
そして年中さんに進級した春、娘は区立の2年保育の幼稚園に入園し、幼稚園に週3日、それまで通っていた療育園には週2日通う、というペースでの登園を始めました。
この頃には娘は、要求などの発語はかなり明瞭に出ていましたが、発信力(つまり思いを伝える力)に対して、圧倒的に受信力(すなわちまわりの状況を判断したり、指示を理解したりする力)が弱く、ぱっと見の印象以上に本人は困っている、というような状態になっていました。
また、保育園に比べて幼稚園は、保護者が保育の様子を見られる場面や親子で参加する行事が多く、あまりにもまわりの子たちとひとりだけ違う娘の様子にわたしの方が涙ぐんでしまったり、幼稚園の行事に参加したはずなのにわたしと娘だけ終始ふたりで集団からはなれて別行動をとるはめになり途方にくれたり、これでいいんだろうか…?というような状況が続きました。
娘の特性や発達の遅れについてわたしはしっかり受け入れているつもりでいたのですが、頭では理解していても、気持ちが追い付いていないということを実感しました。
とはいえ、幼稚園の先生方はそんなわたしたち親子に本当にあたたかく接してくださいました。
たくさんのイレギュラーな対応を臨機応変にとってくださった園長先生、娘のかんしゃくが連日ひどすぎてわたしが園庭で泣いてしまったときに一緒になって泣いてくださった主任の先生、それから娘が大好きな担任の先生や、担当の支援員さん…。
「どうせわたしたちなんて」となんだか卑屈になってしまっていたわたしをいつも支えてくださって感謝の気持ちでいっぱいでしたし、「意外と世間ってやさしいんだな」と感じたことを思い出します。
また、幼稚園で出会った保護者の皆さんも本当にやさしかったです。
ある日の幼稚園おわりに、ひとつ上の学年の女の子から「娘ちゃんはどうして4歳なのにちゃんとおしゃべりできないの?」と聞かれたことがありました。
以前先生から「そういったことを言ってくる子どもは、あなたのお子さんに関心をもってくれているということでもあるよ」というようなお話を聞いていたので、わたしはそこまで気分を害したわけではなく、
「いま娘ちゃんは上手におしゃべりできるように、きょうしつ(療育園のことです)に通って練習中なんだよ」と答えてかわしました。
そのとき隣にいたお母さんがすかさず「娘ちゃんは歌うこととダンスがすごく上手だよ、そうでしょ?」と言ったのです。
(女の子は「そうだね!」と元気よく答えて去っていきました。)
幼稚園生活においてわたしは娘のマイナス面をカバーすることに一生懸命になっていましたが、そのお母さんが「娘のプラス面、いいところ、好きなもの、得意なこと」に目を向けていてくれたことがとてもうれしくて、また泣きそうになりました。
とはいえ、周囲の理解があり、支援員さんがほとんどずっと横について手伝ってくれていてもなお、娘が幼稚園でいまひとつ落ち着いてすごせていない、という事実にはなかなか変化がありませんでした。
年中の12月ごろ、療育園の先生から「来年度は幼稚園は退園して、週5日療育園に通ってみてはどうですか?」というお話をいただいたとき、若干のショックと同時にうっすら安堵したことを覚えています。
「幼稚園での娘ちゃんは、周囲の状況がよくわからず不安なまま、自分のわかる範囲のことだけを抽出してなんとか対応している。療育園できちんとひとつひとつ納得しながら経験を積んでいく方がいいのではないか?」というアドバイスに納得しつつも、
「せっかくここまで幼稚園生活頑張ったのにな…」とか、「いい人たちに恵まれたのにな…」とか、「幼稚園ではいろんな刺激が受けられるけど、療育園では刺激が少ないんじゃないかな…」などなど自分のなかではさまざまな葛藤がありました。
結局、年があけて1月が終わるころまでわたしはずるずると悩んでいましたが、そのころ娘の幼稚園への行き渋りが始まりました。
娘はそれまであまり激しい行き渋りをしたことがなかったのですが、初めてことばで「ようちえんいかない」と自分の気持ちを表現するようすを見て、やはりすこし無理をさせていたのかもしれないと感じ、年長の1年は療育園一本で、週5日お世話になろうと決めました。
長くなりすみません!次回でラストです!
フジコ
058 - フジコ
主婦 / 東京都 / LEE100人隊
33歳/夫・娘(6歳)/料理部・美容部/大阪出身、かに座のAB型、身長165cm。会社員の夫、特別支援学校に通う娘、専業主婦の私の3人家族です。趣味はヨガ、ピラティス、アーユルヴェーダ、読書、民藝。マイブームは和菓子、座右の銘は「健康第一」と「8時間睡眠」です。3年目もマイペースに楽しく活動したいと思っています。よろしくお願いします。
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