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河崎環

イクメンの終わりの始まり【ママの詫び状 第5回】

  • 河崎環

2017.12.16

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イクメンビギナーの皆さん、いいよ、いい感じ!

世間で「イクメン」という言葉がわっともてはやされたと思ったら、今度は「イクメンという言葉で男の子育てを特別視するから、男の子育てが常識にならないんだ」なんて意見も出てきて、ブームが下火になってきているのだとか。いや、それはイクメンという言葉が「育児する男なんて当然のこと。イクメンなんて呼んで褒める考え方はもうそろそろアウト」と死語になってきているだけで、自分の子育てに積極的なパパは、むしろどんどん増えてきている印象。

「自分の子供を自分で育てるのは、当たり前でしょ?」と、”新しい男”たちが家庭を持ち、子供を持ち、どんどん子育て層に流れ込んできてくれている。多くのLEE読者のパパたちも、そう。イクメンじゃなくて、本来あるべき姿としての「父親」が増えてきたんだなぁ、なんて、町なかでひとりベビーカーを押したり、抱っこ紐で赤ちゃんを抱えてぷらーっとお散歩しているパパを見かけては、心の中の「いいね!」ボタンを連打する私だ。

 

「イクメン」さえいなかった、あの頃

20年以上前。あの頃、イクメンなんて言葉はなかったし、イクメンアピールどころか子育てアピールする男性さえ奇特な存在だった。「男の子育て」という言葉が十中八九「『男の』子育て」でなく「『男の子』育て」と受け取られたほど、世間がそんな概念に耳慣れていない時代、子育てしていますと公言するような男性は妻に先立たれたやもめか、妻に逃げられたか、あるいはリストラされて妻が代わりに働きに出たか、百歩譲って暇を持て余したカタギじゃない自営の閑職か、とにかくフツーじゃない変わり者だと、ものすごい偏見で勝手に決めつけられていた。

しっかりした職についている”まともな男”は子育てなんてする暇はない。子育ては女の仕事だろう。子どもの面倒を見させられている、だって? 女の尻に敷かれて情けない! 「稼いでるのは誰だと思ってんだ」って、調子に乗った女房にガツンと言ってやれ!

コメディでなくわりと真剣に、そう世間が信じていた。専業主婦率が高く、女性の就業率が低く、女性の収入が相対的に低く、なんだか社会が「あらかじめ与えられた構図」の中にすっぽりはまったまま、経済が急冷して自分たちの体温が奪われていくのにいら立ちながらも、だんだん寒さで思考能力を失っていくような時代だった。その後、ITバブル崩壊にリーマンショックと、経済の底と思ったものが次々パカパカ割れて、ようやく日本人も自分たちが変わらなきゃダメだと目が覚めるけれど、それも2010年代まで待たなきゃならなかった。

 

「子育てなんて、オトコは苦痛だよ」

私が上の子を出産したのは20年以上前(それでも1990年代後半)だけど、出産後2ヶ月間あまりに自分に手をかけられず、髪がボサボサに伸びてしまって、とにかく近いところでササっと髪を切ってこよう、と夫に娘を託し、初めて行く駅前の美容室を訪れた。すると私にシャンプーをしながら、男性の店長が軽い調子でこう言ったのだ。「ええ〜っ、旦那さんに子ども預けてきたの? ダメだよそれは。そういう時はウチに子連れで来ていいよ。その辺にソファもあるし、寝かせときゃいいよ。赤ちゃん預けられて、子育てなんかオトコは苦痛だよ。旦那さんかわいそうだよ」

「旦那さんかわいそう」との言葉に、ちくっとした違和感があった。たとえ髪を切るだけの1時間も、ダメなのかぁ。その間ただベビーベッドで寝ているだけだとしても、赤ちゃん預けちゃダメかぁ、オトコは子育てが苦痛かぁ、だから旦那さんがかわいそうかぁ。「ウチに子連れで来ていいんだよ」って、多分どちらかと言えばいい人なんだろうな、でもなぁ……と、シャンプーの香りに時折挟まってプーンと香るその店長の独特な脇の匂いに、ちょっと困りながら考えていた。

黙って困惑しているうちに、そのままその人に髪を切られることで、私は「生後2ヶ月の赤ん坊を旦那に預けて自分は髪を切る”非常識な”若い母親」となり、それを自分で受け入れてしまうような気がしてきた。私も夫も親歴2ヶ月なのは同じなのに、「夫に苦痛な時間を過ごしていただき、多大なるご迷惑をおかけしている」という非対称な罪悪感を甘んじて受け入れることになる気がしてきた。私は非常識なの? 母親は子供と一瞬でも離れないのが当たり前なの? 私の夫は、父親なのに1時間も自分の子供を見ることができないの? それが常識なの? 世の中ってそういうものなの?

違和感が、どうしようもない嫌悪感へとむくむく育っていって、白いケープを身につけたままでいいから走って店を出たくなった。一見(いちげん)で行ったその店には、その後足を向けることはなかった。

「オトコは子育てが苦痛だから、自分の赤ん坊を預かることができない」。これを耳にした男性が、瞬時に「そんな馬鹿な」と笑い飛ばしてくれるか、それとも「わかるわかる」とうなずくかで、その人の中の決定的な何かがあぶり出されるような気がしている。世代とか草食だ肉食だとかそんなので言い訳にならない、何かだ。(そもそも、自分の子を『預かる』とはこれいかに?)

 



アウェーな男たち

2歳になった娘が毎週土曜日に通うスイミングスクールには、いろいろなパパがいた。ごくたまに自分が子供と泳ぐためにバッグに水泳の準備を入れて、子供と二人だけで自転車でついーっとやってくる人もいたけれど、マジョリティは素敵な高級車で乗り付けて、子供達が走りまわり、はしゃぎまわり、ママたちがその後を追いかけて着替えさせるのを自分は壁際でぼーっと腕組みして見ているだけ、みたいな人だ。

なぜなのか、「壁際でぼーっと派」の中には、のどかなはずの子供のスイミングスクールで怒り出して、ママに声を荒げている人もいた。例えば、「なんだよ、オムツ足りないって、持ってきてないのかよ」なんて声が聞こえる。チッと舌打ちさえしているから、そのパパがオムツ替えしているのかと思いきや、子供を抱いているのはママだ。どうしたの、何にイライラしているの。そんなの、持っている人に融通してもらったり、なんなら受付に聞けばいいだけのことなのに、自分の妻に舌打ちとは。というか、子供とのお出かけの準備からスイミングスクールの世話まですべて奥さんにしてもらっているであろうあなたに、そういう怒りかたをする権利、あるの? 余裕のなさと知恵のなさ、経験のなさをわざわざ大声で周囲に教えているように見えて、見ていて痛々しかった。

即座に他のママが「あ、ウチたくさん持ってきているからどうぞ」なんて、一枚差し出して事なきを得る。当のパパは「あ、すいませんそちらのお子さんのなのに」とペコペコした先から自分の妻に「今度ちゃんとお返ししといて!」と”命令”した。離れて見ていた私は、なんでそんなにエラそうなんだろうと不思議で仕方なかったのだけれど、そうか、”自信がない”んだ。本当はこんなところへ来たくないんだ。

父親としてどういう顔をしていいのかわからない、どういう動線で振る舞えばいいのかわからない、何か”トラブル(というほどのことでもないのだけれど、本人にとっては一大事)”が起きた際の対応なんて、もうパニックなのだ。

その戸惑いを怒りとして表現しているんだな。スイミングスクールで、公園で、幼稚園で、保育園で、よく考えると彼ら父親はアウェーだったのだ。不慣れな場所で、しかも周りは同じような子連れで、母親も父親もいっぱいいて、なんとなく牽制までして。不安で仕方ない、その気持ちがやがて「なんで俺が」と、不愉快という感情へ変わる。会社とは違う不慣れな場所で、手持ち無沙汰で不機嫌そうな顔をした父親たちが、壁際に鈴なりになっていた。

なんで俺が、って? それはあなたがその子の父親だからですよ。

父親を子育ての現場からアウェーにしない。父親を子育ての当事者にしなきゃいけない。もともと、父親は当然子育ての当事者であるにもかかわらず、彼らが子育てからアウェーな社会だったのは、本人ばかりでなく、母親にも子供にも、家族にとって不幸なことだ。

だから「イクメン」という言葉が登場した当時、それは日本社会にとって大きな価値観の転換を意味していたし、大事な大事な取り組みだったのだ。

 

「僕はワーママと同じことをしているだけです」

2000年代初頭(21世紀になったばかり)、またイクメンという言葉が登場していないころ、”男の”子育てを地方からブログで発信していた2児のパパがいて、その人の日々のブログを読むのが好きだった。その人は自分から好んで子育てにたくさん携わっているのに、周りの人たちが「なんで奥さんが専業主婦なのに、旦那さんがそんなに子育てを”手伝って”いるの」とあまりに頻繁に言ってくることへ、ずっと疑問をつづっていた。

ある日のエントリに、「僕はワーキングマザーと同じことをしているだけです」と書いてあって、本当にそうだと思った。そうなのだ、”ワーママ”なら子育ても仕事もみな自分なりのバランスを探して、こなしていく。なぜそれを”ワーパパ”がするとおかしいと思われるのか。あっ、そういえばワーパパなんて言葉、ないぞ。ワーキングなママとは特筆すべきことで、ワーキングなパパは、書くまでもなく当たり前だと思われているんだな。

共働き夫婦とは、ワーママが二人、いやワーキングペアレンツが二人いる状態。仕事も子育ても、自分ごととして当たり前に行う、そういうカップルがデフォルトになればいいのにな……そう思っていたら、2010年代になって、そんな世界にようやく近づいてきた気がしている。

 

「イクメンじゃなくて、父になれ」

長い間子育て界隈で物書きをして、海外の事例を引きながら「男性ももっと子育てしようよ」「子育て、たくさんものを考えるきっかけになって面白いよ」「それが当然の社会になろうよ」と小さな声で細々と主張していたから、育児をする男という意味の「イクメン」という言葉を初めて耳にした時、ああ、いい言葉が出てきた、良かったと思った。色々と面倒な雑音もまるっとひっくるめてキャッチーな入れ物に収め、ポジティブで明るいイメージを広めてくれると思った。

言葉には時折、あえて「清濁併せ呑む」役目が与えられる時がある。それまでは、本でも雑誌でもテレビでも、子どもを抱っこしたりベビーカーを押しているのはみんな判を押したように女性。「男たるもの」とかスカスカの決まり文句でガタガタ言う人もいるけど、いったんそういう意味不明の雑音を「イクメン」というスマートなイメージでミュートにして、子どもを抱っこし、ベビーカーを押している男性の絵が広まるだけでもいい、それだけでも大きな一歩だった。

だから、イクメン普及初期に同じ男性から「女に受けようとカッコつけやがって」「どうせそのぶん仕事がおろそかなんだろ」なんてやっかみが出ると、ははーん、この言葉が世間に普及していってる証拠だ、よしよし、なんてほくそ笑んだ。街中で抱っこ紐を身につける若いパパや、公園や買物にパパと子どもだけで出かける実践の姿が見られるようになり、ところがやがて女性から「SNSのイクメンアピール、うざい」「薄っぺらい。中身がついていってないくせに笑止千万」「本当に子育てしている人は自分をイクメンって呼ばない」「イクメンは『被害者だけど頑張ってるオレ』アピール」との辛辣な声が出ると、イクメンの”量”がある程度揃ったから、今度は”質”が問われるようになってきたなと、イクメンムーブメントが成長していくのを感じた。

いよいよ一周まわって、子育てをする男性本人たちから「イクメンという言葉で、子育てする男を特別に囲うのはやめよう。父親として、自分の子どもを育てるのは当たり前。イクメンじゃなくて父になろう」との言葉が出てきたとき、ああ、イクメンムーブメントは成熟を迎えて、イクメンという言葉はその役割を終えつつあると実感した。

ここまで、約10年。それは長かったのか、それとも短かったのか。人によって感じ方は違うかもしれないけれど、私にはとてもスピーディーに感じられた。その前の「男が子育てなんて」の時代が、あまりにも長かったから。男女に関してはなかなかしぶとい価値観が根付いている日本社会のわりにイクメン普及が早かったのは、それだけもう既に社会的ニーズが育っていたからなのだと思う。女たちは、ずっと男に子育てしてほしかった。そして多分、若い男たちは子育てしてみたかった。あるいは、それだけの世代的素地があった。タイミングが合ったのだ。

「イクメン」の4文字は、委ねられた役割を本当によく果たしたと思う。よくやったよ、「イクメン」。「イクメン」という言葉に引導が渡されて死語になった時、それは日本の男たちがようやく、自分の子供を自分で育てる、当たり前の「父親」になったということだ。さあ、「イクメン」に引導を渡してあげる日を心待ちにしませんか。

河崎環 Tamaki Kawasaki

コラムニスト

1973年、京都生まれ神奈川育ち。22歳女子と13歳男子の母。欧州2カ国(スイス、英国)での暮らしを経て帰国後、子育て、政治経済、時事、カルチャーなど多岐に渡る分野での記事・コラム執筆を続ける。2019秋学期は立教大学社会学部にてライティング講座を担当。著書に『女子の生き様は顔に出る』(プレジデント社)。

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