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河崎環

娘のデスノート【ママの詫び状 第1回】

  • 河崎環

2017.09.07

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はじめまして。「女子」をめぐるいろいろな話題と、塩顔イケメンとお酒が大好物のコラムニスト、河崎環です。

LEE読者のみなさんは、子育てをしていると、いろいろ感じ、考え、思い出しませんか。いま目の前にいる子どもと自分、そして家族のこと。自分と親、さらにその前の世代のこと。過去・現在・未来、自分が大きな流れの中にある一つの点であることを知り、人と人の繋がりや縁、人生の不思議に思いを馳せる。きっと私たちはそういう心の活動を経て、「親になる」のだと思います。

LEE本誌6月号『今だから振り返られる私の子育て』でインタビューをお受けしたことをきっかけに、自分の約20年間の子育てで忘れかけていた記憶が鮮やかに呼び覚まされた、今年の夏。ちょうどこの『暮らしのヒント』での執筆にお声がけをいただいたとき、思い出したあれこれをここでエッセイとして連載しようと思いました。連載のタイトルは——『ママの詫び状』。

涙も笑いも、ひとまずまるっとひっくるめて、とにかく詫びたい。そして(最終的には)「よく育ってくれたね、ありがとう」と伝えたい。どこかそんなほどけた気分の、母親業22年目の言葉をお届けします。

母、娘のデスノートを発見する。

もう10年も前のことだ。夏休み明け、当時小学5年生の娘の洗濯物をしまおうとして彼女の部屋のクローゼットを開けたら、並び吊るされたパステルカラーの洋服たちの下に、不似合いな黒いノートを見つけた。いやな予感は十分にしたのだけれど、カタカナで「デスノート」とペン書きされたそれをついうっかり開いてしまったら、1ページ目に見事に「母親」とある。ああ見てしまった、ゴメン、娘。道理でノートから妙な黒いオーラが出ていると思ったんだ……

どこまで本気か知らないけれど、仮に「漫画を真似してやってみた」程度の戯れであっても我が子に死を願われるなんてのは、母親としてはもちろんわりとショック。ショックではあったけれど、「だよな、子供としてはまずは書くよなぁ、母親って」と、その頃やたら私につんけんする日々が続いていた娘の思春期入りの裏付けを得た気がして、同時にどこか腹が据わったのを覚えている。

さあ、子離れだ子離れだ。娘は、私とは別の人間で、別の人格だ。母親は、子供を自分の分身だとか延長だとか言って思い通りにしようとしてる場合じゃない。「まだ子育ての手が離れなくて〜」なんて口走っていつまでも子供に甘えていないで、自分の領分をわきまえなくちゃいけない。子育ての手が離れないんじゃない、離すのは自分だ! 子育てどっぷりだとつい「子供の人生をどうにかしなきゃ」的に子供のことで頭がいっぱいになってしまうけれど、違うよね、どうにかしなきゃならないのは自分の人生のほう——そう自分に宣告した。

娘はちょうど、中学受験でそれなりにハードなフェイズに入った小5の夏期講習を終えたばかりだった。そのころ2歳の少々育てにくい息子を抱えて専業主婦だった私は、11歳の娘に学力的にも生活上もかなり高い要求をしていたような気がする。「そんな程度でやり過ごす受験ならやめてしまえ!」と、塾のテキストがリビングを弧を描いて舞った日があったような気もする。私自身も長子でゴリゴリの長女だから、「その年ならこれくらいできて当たり前」と、高めハードルを平気でいくつも設定して、無理をさせていた。

娘のデスノートの件はあえてそれ以上深掘りせず、本人にも突っ込んで聞かず(だって、自分が娘の立場だったら絶対イヤだものね)、とにかくそれ以来私は、「娘のプライバシー、特に学業や表現活動の自由を絶対に侵害しない」ことにした。もちろんそれは、情緒的に実に安定し、クリエイティブで、精神年齢の高い娘に深い信頼があったから。中学受験が、親が積極的に関わらせてもらえる最後のイベントで、彼女の元服になるんだろうな。そこからは、そんな気持ちで並走した。

母が娘に謝るとき

あのときの私の母も、似たような気持ちになっていたのだろうか。

私が中1のときだったか、とにかく毎日親なるものに対してイライラとくすぶっているころに、母がふと真顔で言った。「たまちゃんは初めての子だったから、お母さんも子育て初めてで、いろいろ苦労かけちゃったかもしれない。ごめんね」

何よりも私が幼稚園の頃からずっと仕事をしている母で、いつも授業参観はスーツ姿で、電話しているときは誰かと難しい話をしたり喧嘩したりしていた。自宅にいるときは原稿用紙に向かっていて、料理下手で洗濯下手で掃除下手で、それらは家事が得意で温和な父の仕事で、私は留守番の多い子で、いつも年子の弟の面倒を見ていた。

幼稚園にも入らないような小さい頃、母に叱られた記憶が残っている。母と出かけた駅前スーパーの買い物帰り。店を出るとそこは強めの雨が降り始め、だけど母は急いでいたのか、来た通りに自転車で帰ることを決行した。母は「たまちゃん、お母さんに傘さして。お母さん漕ぐから」と早口で言うと、後ろの荷台に取り付けられた子供椅子に小さな私を乗せ、1本の大人用の傘を手渡して、前かごを食品で山盛りにした自転車にまたがった。

そうしている間にも雨は容赦なく降りつけて、手がすべって傘が開かない。「早くして!」の声に、幼い私は必死で当時の大きく重い傘を開いて、片手で傘をさし、片手で子供椅子の手すりをしっかり握りしめた。でも、もともと普段は「危ないから、両手でしっかり手すりを持ってなさい」と厳しく言いつけられているのだから、片手だなんて怖くて仕方ない。でも、重い大人用の傘も母の頭上に差し伸べなきゃいけない。

子供の握力ではその傘は片手じゃまっすぐに支えることもできなくて、でも自分も椅子から落ちちゃいけないから、降りしきる雨の下、グラグラと左右に揺れる傘と自分をとにかくしがみつくようにして支え続けた。赤信号で自転車が止まった瞬間、母が「ちゃんとしっかり傘を持ちなさい! 全然させてないじゃないの!」と後ろを振り返って叱りつけた。その眼鏡は雨粒まみれで、彼女には視界なんてなかったのだ。同じようにずぶ濡れになった服の裾で気休めに眼鏡をぬぐいながら、母はなおも言った。「傘もさせないなんて、たまちゃん、あなたお姫様か何かのつもりなんじゃないの?」

理不尽だ。3つやそこらの子供の握力で、片手で大人の傘をまっすぐ支えて、もう片方の手で自転車の後ろの椅子から落ちないように手すりを握れるものか。あげく「お姫様気分」と言われて、私は本当に悲しかった。「お姫様」は、現実主義で甘えが嫌いな母にとってネガティブな言葉だったからだ。でも、自分が母親となった今なら、あの時の母のどうしようもないぐるぐるとした感情が理解できる。母は雨でびしょ濡れになった私を連れ帰り、当時二世帯住宅で同居していた祖母に買い物を届けた。「まあかわいそうに、こんな雨の中を自転車で帰ってくるなんて、非常識ねぇ。子供に風邪を引かせるつもり?」祖母は私の頭をタオルで拭きながら母を非難した。でも母は、姑のために雨の中を急いだのだ。

それからほどなくして、我が家は祖父母宅から「スープの冷めない距離」にマンションを買い、母は仕事を再開した。

デスノート、来るなら来い!

私が思春期になってもデスノートに自分の母の名前を書くなんてことをしなくてよかったのは、母が「家事はからっきしで、仕事ばっかりしている『非常識でダメな』お母さん」という、当時の理想の母親像とは真逆のイメージを引き受けてくれたからかもしれない。お母さんはダメでいい。変に多方面に能力が高くて優しくて高潔で子供を「導く」お母さんは、良妻で賢母で素敵かもしれないけれど、そんな完璧なお母さんを、子供は乗り越えられないからだ。

いま、私は「家庭内最大最凶の理不尽でワガママでいばりんぼの酒飲み母」として、家族から安定的な低評価を受けている。この夏、ちょうど小6、あのころの娘と同じくらいに成長して夏期講習漬けになっていた漫画とラノベ大好きの息子が、「お母さん、オレ、お小遣いでデスノートのレプリカ欲しいんだけど」と言ってきた。10年の時を経て『デスノート』再び。「作品の息、長いな〜!」という感心は傍(わき)に置いて、作中に出てきたデスノートそっくりに作られたという黒いノートを、「お小遣いから出すならよろしい」と私は承諾した。

息子の説明によれば、どうやら小学校高学年頃の少年少女には、デスノートの「生まれつきだとか特殊なトレーニングを必要とせず、ノートを手に入れただけで特殊能力が手に入る」という簡便な設定がとても魅力的らしい。何に使うか知らないが、学校に持っていかない、それで他人を傷つけないということだけは約束、あとは好きにするがよい。仮にまた戯れでデスノートに自分の名前を書かれたとして、それくらいでくたばるお母さんではないからだ。ふっふっふっ。

河崎環 Tamaki Kawasaki

コラムニスト

1973年、京都生まれ神奈川育ち。22歳女子と13歳男子の母。欧州2カ国(スイス、英国)での暮らしを経て帰国後、子育て、政治経済、時事、カルチャーなど多岐に渡る分野での記事・コラム執筆を続ける。2019秋学期は立教大学社会学部にてライティング講座を担当。著書に『女子の生き様は顔に出る』(プレジデント社)。

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