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映画ライター折田千鶴子のカルチャーナビアネックス

キュッと胸を締めつける台湾映画『幸福路のチー』。 ソン・シンイン監督インタビュー「あの頃、思い描いた未来に今、立てていますか?」

  • 折田千鶴子

2019.11.26

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自らスタジオを立ち上げたパワフルウーマン

台湾映画って、とっても肌馴染みがするというか、懐かしいような切ないような温もりをどこか湛えていて、私たち日本人はみなきっと、甘酸っぱいノスタルジーに襲われるんじゃないかな、といつも思います。

その台湾が、アニメーション不毛の地であるとは初めて知りましたが、台湾発の『幸福路のチー』は、東京アニメアワードフェスティバル2018でのグランプリ受賞をはじめ、各地の映画祭で受賞という、いきなりの快進撃を収めてしまいました! その監督こそ、京都にも留学経験のあるソン・シンイン監督です。

なんと本作を制作するため、台湾で自らアニメーション・スタジオを設立したというから驚きです! いろんな面白いお話が飛び出しそう!!

ソン・シンイン監督
1974年台北生まれ。新聞記者、TVドラマの脚本家、写真家などを経験。京都大学で映画理論を学んだ後、コロンビア・カレッジ・シカゴで映画修士号を取得。短編実写映画を数本制作したのち、2013年に短編アニメーション「幸福路上」を制作。第15回台北電影節台北電影奨で最優秀アニメーション賞受賞。これが本作『幸福路のチー』に。教師役のボイスキャストを自身で務める。現在、初の実写長編「Love is a bitch」を制作中。京都滞在時の体験をもとにしたエッセイ小説集「いつもひとりだった、京都での日々」が早川書房より発売中。
写真:齊藤晴香

――自身でアニメスタジオを立ち上げるなんて、相当な困難があったはずですよね?

「台湾ではアニメ映画が成功した前例がないので、最大の問題はやはり資金集めでした。今回、主人公のチーの声にグイ・ルンメイさんのようなスター(日本でも根強いファンの多い青春恋愛映画『藍色夏恋』(02)でデビュー後、国際的に活躍中の女優)にお願いできることになりましたが、それなら実写で撮ればいい、そうすれば出資する、と言われてしまって……。でも私は、現実と幻想を織り交ぜて語りたい、という発想から始まっているので、どうしてもアニメで作りたかったんです」

「アニメーターをはじめ、人材も台湾国内で見つけるのは本当に大変でした。最初は、外国作品の下請けをされてきたベテランにお願いしましたが、どうしても意見があわず、一度、解散して。それで卒業したばかりの新人たちと組むことにして話が通じるようになりましたが、何しろ卒業したてなので、今度は幼稚園児を世話するのと同じくらい、彼らを管理するのが大変で(笑)!!」

 

激動の時代を生きた少女チーの半生――

 

『幸福路のチー』
監督:ソン・シンイン
声の出演:グイ・ルンメイ、チェン・ボージョン、リャオ・ホェイジェン、ウェイ・ダーション
主題歌「幸福路上/On Happiness Road」 歌:ジョリン・ツァイ
台湾/111分/2017年/配給:クレストインターナショナル
11月29日(金)より新宿シネマカリテ、ヒューマントラストシネマ有楽町他、全国順次ロードショー
© Happiness Road Productions Co., Ltd. ALL RIGHTS RESERVED.

 

台北郊外に実在する通り「幸福路」を舞台に、少女チーと下町に生きる人々の姿を活写した感動作。アメリカで暮らすチーは、祖母の訃報の知らせを受け、久しぶりに故郷に帰ってきます。そこは見慣れた風景が一変! すっかり整備された運河から高層ビルの立ち並ぶ街を眺めるチーの脳裏に、かつてこの町で過ごした日々が走馬灯のようによみがえります――。

――映画は、台湾の激動の時代を駆け抜けた、少女チーの半生が描かれています。監督の半生が色濃く反映された物語ということですが、台湾の近現代史に、人格形成や人生などに大きな影響を及ぼされたと感じていますか?

「はい、歴史はとても大きな影響を私に与えたと思います。例えば言葉ひとつをとっても、私の両親は台湾語を話しましたが、私は北京語。そういう状況下で自分が標準語とされる北京語を話すと、台湾語しか話さない人よりも、何となく上にいる感じがしたんです。台湾語世代の人を下に見るようなところがありました。そういうことって、あんまり大っぴらに認めたくないようなことなのですが……。だから私たちは子供時代から、政治や歴史の影響を非常に強く受けていたと思います」

 

シンプルな人物画×水彩画のような風景

――とっても印象的な絵が魅力です。監督自身は実写の監督出身で、絵を描かれるわけではありませんよね。どのような指示で、こんなノスタルジーが漂うような絵を生み出していったのでしょう?

「若いアニメーターの上に、アニメーション経験のある30代のディレクターを2人おいて、指導してもらいました。一人はピクサー好きな人で、もう一人は日本のアニメ好きな人で(笑)。だから彼らが最初に作り出したキャラクターは、一方はアメリカ的でもう一方は日本的。でも私は、台湾的なものを求めていて。最初に、とにかく喧嘩に近い議論を大いにかわしました」

「私の両親の写真や、街の写真をたくさん渡すなど、具体例をたくさん用意して、描いたもののニュアンスを調整していく、という繰り返しでした」

――チーをはじめ人物はシンプルな線描で、単純明快な絵ですが、対照的に背景は非常に淡い水彩画のような絵です。そのコンセプトとは?

「背景は、自分が思い描いている台湾の雰囲気がディテールにいたるまで欲しかったので、写真を使いながら言葉を尽くして説明しました。でも、写真のようなリアルっぽい感じにはしたくなかったので、水彩画のようなタッチで描いて欲しいとお願いしました。でも水彩画のタッチって、アニメーターそれぞれのタッチが非常に違うので、それが現れやすくてすごく難しかったですね。モデルは実際にある幸福路という通りですが、特徴をあまり出し過ぎず、“どこかで見た風景”と誰もが感じられるものを狙いました」

「人物は逆に、一目でパッとキャラクターが分かる、典型的なキャラクターとして作りたかったので、シンプルな線描にしました。一人一人複雑なものを書き込まず、ある種シンボリックな特徴を出していく。例えば髪型にしても、体型にしても、あの時代のオバさん、お婆ちゃん、中年の男性は、こんな感じ、という共通した印象ってありますよね。そこを狙いました」

 



時代を変えられると信じた10~20代

――チーと同じように、監督自身も学生運動に参加されるといった、反骨精神逞しい世代だったということでしょうか?

「そういう雰囲気だったので、当然のように若い者はみな、学生運動などに参加していました。参加するのが“当たり前”という雰囲気だったのです。台湾では、90年代に入って民主化運動が起こり、私たちは、その運動のただなかに居ました。これに参加するれば国を変えられる、社会を変えられると本気で思っていました」

「自分は何になるのかという思いと共に、自分には何かができるような気がしていました。でも今、40代になって振り返ると、実は何もできていなかった、あんなに時代を動かせるような気がしていたのに、何も変えられなかった、あれは幻想だったのか、と苦い思いを味わった世代でもあります。それも映画で描きたかった、大きなメッセージの一つです」

 

「いつもひとりだった、京都での日々」(早川書房)に詳しいですが、すごくユニークな体験を引き寄せる力のある(笑)、とっても率直で正直で可愛らしくて、とても楽しい監督でした! これからの活躍が益々楽しみですね!!

――その苦い思いは、無力感みたいに自分に返ってきましたか? その後の人生に、どう影響したのでしょうか。

「無力感というより、個人で何かを表現することで社会も変えられる、という考え方に変わりました。社会運動に参加したから政治家になってこの社会を変えるんだ、ということではなく、私は映画を撮る道を選んだのだから、映画を通して社会に何らかの影響を与えることが出来るんじゃないか、と。きわめて個人的な道を歩みながら、影響を与えられる道に進んだな、という自負はあります」

「私たちの世代は小さい頃から、偉い人にならないとダメ、という教育を受けてきました。だから、常にそういうコンプレックスがあって。でも今は、いわゆる偉人にならなくていい、神格化された人間にならなくてもいい、こういう平凡な人間の人生でいいんじゃないか、と思うようになりました」

 

“心の目で見る”大切さ

――時代を変えるという意気込みと同時に、チーは親の期待を背負っています。私たち子供は、常に“親の期待に応えよう”としてしまいがちですよね。

「おそらく、アジアの子供たちに共通する思いだと思います。両親の期待を背負わされ、それに応えたい、親孝行をしたい、という気持ちは、私たちみんなにあると思います。私の両親は労働者階級で、私に大きな期待を寄せていました。私はその通りには行かなかったのですが、“心の目で物事の本質を見る”ことを選びました」

「本来は、大学に入り、いい職業を選んでお金持ちになる、というレールが敷かれていましたが、もし私が実際にその道を行ったとしたら、幸福路ではなく、不幸路になってしまったはず(笑)。私が選んだのは、自分のなりたい人、自分の生きたい道を歩む、ということです。私は、こうして何らかの影響を社会的に与えられるような道を選びました!」

 

――映画では、チーがお祖母ちゃんに何度も「心の目で見ろ」と言われますね。

「実際には、私と私のお祖母ちゃんは仲が悪かったんです……。お祖母ちゃんは主流民族ではない原住民族のアミ族でしたが、私たちはアミ族は野蛮だと教えられていたので、私もどこか見下しているところがあったんです。その苦い思い出も、本作には込めました。私が“心の目で見よう”と学んだのは、大人になる過程のなかで蓄積してきた思いですが、お祖母ちゃんの言葉を通して観客に伝えたかったのです」

「私のかつての同級生たちは優秀な人が多く、女医になったりお金持ちの奥さんになったり、いわゆる社会的に“勝ち組”が多いのですが、“本当にそれで幸せかなぁ”と疑問に思うことがあるんです。みんなの期待に応えようとするのって疲れるし、本当の幸せではない気がして……」

 

家族はいつでも待ってくれている

――監督はこうして世界を飛び回って活躍されていますが、チーはアメリカという新天地で夢に破れ……と、人生に哀愁が漂っています。そういうペシミスティック色を強く感じたのですが、どんな思いからそうしたのですか?

人生に失敗はつきもので、すべて自分が責任を負うものですよね。両親でもないし、他の誰かでもなく。でも失敗に対してチーの両親は、気にしないでいい、という態度で優しくしてくれます。一度、国外に出てしまった人は、たとえ成功した勝ち組であっても、台湾に帰って来る、帰って来たいということが、なかなか言い出せない人が多いんです。でも、どんな状況であれ、家族は“心配しないでいいんだよ、戻っておいで”と言ってくれるものだと思います。それが、この映画で私が伝えたかった、もう一つのメッセージでもあります」

 

――チーはよく空想や妄想世界に入り込みます。その現実と空想の混じり込みが、大胆で勢いがあって、この映画の魅力であり特徴でもありますね。

「実際、私はよく夢ばかり見るのです。理想も入りこんだ色んな夢をみるんです。その夢を全部語ろうとすると、簡単に1冊の本が出来るくらい。でも今回、アニメでそれを表現したいと思って作ったので、それを色々と表現してみました。私が一番得意なのは、編集なんです。どのシーンをどれくらいの長さで繋いでいくかは、やる前からクリアな方針をもって始めていたんですよ!」

どことなく漂う哀しみ、みたいなものが個人的には意外だった、というか意表を突かれたというか、そんな思いを抱きつつ、ちょっと泣きべそをかきたいような、そんな切ない後味――。

チーの成長過程に台湾の現代史が詰め込まれた、味わい深い一作。人生ってままならないもの……。世界中の観客が「これは自分の物語」と心を寄せたように、きっと大人になった私たちは、両親の愛に包まれた幼いチー、反骨精神たくましい生意気なチー、人生に惑うチーに、自分を感じずにいられないと思います。

ぜひ劇場で、あの頃の自分と 再会してください!

 

折田千鶴子 Chizuko Orita

映画ライター/映画評論家

LEE本誌でCULTURE NAVIの映画コーナー、人物インタビューを担当。Webでは「カルチャーナビアネックス」としてディープな映画人へのインタビューや対談、おススメ偏愛映画を発信中。他に雑誌、週刊誌、新聞、映画パンフレット、映画サイトなどで、作品レビューやインタビュー記事も執筆。夫、能天気な双子の息子たち(’08年生まれ)、2匹の黒猫(兄妹)と暮らす。

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